2009/11/15 12:58
クリスマス・ツリーと環境保護
マンハタンのタイムズ・スクウェアは、世界からの観光客を連日集め、さながら「世界の縮図」のような観を呈している。
そのタイムズ・スクェアの53番街だったと思うが、西へ2ブロックほど歩いたところにロック・フェラーセンターがある。日本の紀伊国屋書店がすぐそばにあるため、日本の観光客も多く集まる。
このロックフェラー・センターにおいて、恒例のクリスマス・ツリーの準備が始まったことがザ・シチュエーション・ルームで報じられていた。このクリスマス・ツリーに、オーストリアのガラス工芸のスワロフスキ−の輝く装飾が、3万個以上ちりばめられ、さながら天上の光景を彷彿とさせる。
さて、今年のクリスマス・ツリーは、ニュージャージー州から切り出されたものだが、ザ・シチュエーション・ルームで、切り倒されるところが放映されていた。ハッキリ申し上げまして、「もったいない」、という気持ちを見ているものは抑えることはできないのではないでしょうか。何十年もの時間がかかったであろう20メートルほどに成長をした立派なもみの木を、数分で切り倒すことは、自然への冒涜に他ならない、という思いがふつふつと沸いている。
実際、アンカーマンのウルフ・プフィッツァーの言葉にも、「こんなことを行っていても良いのだろうか」、という思いが、その解説に暗に示されていたように聞こえた。
クリスマス・ツリーは、19世紀ごろからのドイツ・プロテスタントの習慣にすぎないのだが、今では世界中で、キリスト教の「お祭り」になってしまっている。そこには精神性はかなり希薄であり、その証拠に非キリスト教圏においても盛んに「真似」られるようになっている。単なる消費社会を楽しむことだけが横行するのであるが、消費社会は、生活そのものであることから人々は「非精神的象徴」を楽しもうと必死になる、いや、必死に楽しむことを強いられるかの如くだ。
日本がキリスト教化されるのはいつのことになるのでありましょうか。
豊かな日本の自然と日本人との間に培われてきた数千年、数万年の時の経過をまったく考慮もしないかのような、現代日本のムラ社会が精神的不毛であることをあまりにも明確に象徴をしながら、人々への「警鐘」となっているのでありましょう。(エィメン、南無阿弥陀仏、かむながら、アッラー・・・)
そのタイムズ・スクェアの53番街だったと思うが、西へ2ブロックほど歩いたところにロック・フェラーセンターがある。日本の紀伊国屋書店がすぐそばにあるため、日本の観光客も多く集まる。
このロックフェラー・センターにおいて、恒例のクリスマス・ツリーの準備が始まったことがザ・シチュエーション・ルームで報じられていた。このクリスマス・ツリーに、オーストリアのガラス工芸のスワロフスキ−の輝く装飾が、3万個以上ちりばめられ、さながら天上の光景を彷彿とさせる。
さて、今年のクリスマス・ツリーは、ニュージャージー州から切り出されたものだが、ザ・シチュエーション・ルームで、切り倒されるところが放映されていた。ハッキリ申し上げまして、「もったいない」、という気持ちを見ているものは抑えることはできないのではないでしょうか。何十年もの時間がかかったであろう20メートルほどに成長をした立派なもみの木を、数分で切り倒すことは、自然への冒涜に他ならない、という思いがふつふつと沸いている。
実際、アンカーマンのウルフ・プフィッツァーの言葉にも、「こんなことを行っていても良いのだろうか」、という思いが、その解説に暗に示されていたように聞こえた。
クリスマス・ツリーは、19世紀ごろからのドイツ・プロテスタントの習慣にすぎないのだが、今では世界中で、キリスト教の「お祭り」になってしまっている。そこには精神性はかなり希薄であり、その証拠に非キリスト教圏においても盛んに「真似」られるようになっている。単なる消費社会を楽しむことだけが横行するのであるが、消費社会は、生活そのものであることから人々は「非精神的象徴」を楽しもうと必死になる、いや、必死に楽しむことを強いられるかの如くだ。
日本がキリスト教化されるのはいつのことになるのでありましょうか。
豊かな日本の自然と日本人との間に培われてきた数千年、数万年の時の経過をまったく考慮もしないかのような、現代日本のムラ社会が精神的不毛であることをあまりにも明確に象徴をしながら、人々への「警鐘」となっているのでありましょう。(エィメン、南無阿弥陀仏、かむながら、アッラー・・・)