2009/11/21 12:47
ゴルバチョフを最も信頼した男
ベルリンの壁が人々の手によって崩されたのは1989年11月9日。1961年に建てられ、実に、27年間、「一つの市」を引き裂き、冷戦時代の象徴となっていた。壁を乗り越えようとして約200人の東ベルリン市民が命を落とした。日本ではベルリンの壁崩壊20周年を祝う放送は少ないようだが、欧米では連日報じられていた。そのなかでニュースペーパーの一つの記事を紹介したい。

1987年6月12日、ベルリンのブランデンブルグ門で演説をするレーガン大統領。「ゴルバチョフ氏よ、この壁を崩しなさい」は、歴史的な名演説となった。
11月6日付、ロサンジェルス・タイムズのジェームズ・マンの記事
Reagan at the Berlin Wall ベルリンの壁のリーガン大統領
なお、ジェームズ・マンは、日本でもベストセラーとなった『米中奔流』の著者。
1987年6月12日、レーガン大統領は西ベルリンを訪れ、ブランデンブルグ門において演説を行った。1963年のケネディ大統領の「Ich bin Berlinner (私はベルリン市民だ)」の演説を意識していたと思われるが、実際、歴史に残る演説部分、"Mr. Gorbachev, tear down this wall. 『ゴルバチョフ氏よ、この壁を崩しなさい』" は、その後のベルリンの壁崩壊から冷戦終結への一つの原動力となったと指摘されることが多くある。
このスピーチは、レーガン大統領のスピーチライターであったピーター・ロビンソンによるものだが、この部分を入れるかどうかについて、上司からは削除の指示が出ていた。しかし、ロビンソンは削除せず、そのままレーガン大統領の手元に渡った。大統領は、この部分を残すことを決定するのだが、大統領のアドヴァイザーたちは緊張を強いられた。なぜなら、ゴルバチョフ氏の改革は、当時からモスクワの守旧派により攻撃を受けており、レーガン大統領のこの演説が流れれば、ゴルバチョフはさらに窮地に追いやられることが予想され、レーガン=ゴルバチョフの核兵器削減交渉にも影響を与え、ひいては米ソ関係が冷え込むことも想定されたからだ。
ピーター・ロビンソンは、ダートマス大学で英文学を専攻、全優で卒業、オックスフォード大学にて哲学で2つ目の学士号を取得した。オックスフォードで大学院に進み、経済学と政治学を学び、1982年、24歳の時にレーガン大統領のスピーチライターに応募し、採用された。1987年のベルリン・スピーチは彼が30歳の時の「作品」だ。
ロビンソンの「作品」は、見事に功を奏し、レーガン大統領のこの演説は、その後の米ソ関係のあり方を強固なものとしながら、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊へと至る。壁崩壊の時、東ドイツの共産党書記長はホネッカーを継いだクレンツだった。モスクワに緊急電話をかけた。「東ドイツ政府は、どのように対応すればよいのか」、とゴルバチョフに「お伺い」をするためであったが、ゴルバチョフは、クレンツからの「問い合わせ」の電話をとることはなかったという。
ゴルバチョフを最も信頼した男、それは、ホネッカーでもなく、クレンツでもなく、レーガン大統領であった、と言えるのでありましょうか。

1987年6月12日、ベルリンのブランデンブルグ門で演説をするレーガン大統領。「ゴルバチョフ氏よ、この壁を崩しなさい」は、歴史的な名演説となった。
11月6日付、ロサンジェルス・タイムズのジェームズ・マンの記事
Reagan at the Berlin Wall ベルリンの壁のリーガン大統領
なお、ジェームズ・マンは、日本でもベストセラーとなった『米中奔流』の著者。
1987年6月12日、レーガン大統領は西ベルリンを訪れ、ブランデンブルグ門において演説を行った。1963年のケネディ大統領の「Ich bin Berlinner (私はベルリン市民だ)」の演説を意識していたと思われるが、実際、歴史に残る演説部分、"Mr. Gorbachev, tear down this wall. 『ゴルバチョフ氏よ、この壁を崩しなさい』" は、その後のベルリンの壁崩壊から冷戦終結への一つの原動力となったと指摘されることが多くある。
このスピーチは、レーガン大統領のスピーチライターであったピーター・ロビンソンによるものだが、この部分を入れるかどうかについて、上司からは削除の指示が出ていた。しかし、ロビンソンは削除せず、そのままレーガン大統領の手元に渡った。大統領は、この部分を残すことを決定するのだが、大統領のアドヴァイザーたちは緊張を強いられた。なぜなら、ゴルバチョフ氏の改革は、当時からモスクワの守旧派により攻撃を受けており、レーガン大統領のこの演説が流れれば、ゴルバチョフはさらに窮地に追いやられることが予想され、レーガン=ゴルバチョフの核兵器削減交渉にも影響を与え、ひいては米ソ関係が冷え込むことも想定されたからだ。
ピーター・ロビンソンは、ダートマス大学で英文学を専攻、全優で卒業、オックスフォード大学にて哲学で2つ目の学士号を取得した。オックスフォードで大学院に進み、経済学と政治学を学び、1982年、24歳の時にレーガン大統領のスピーチライターに応募し、採用された。1987年のベルリン・スピーチは彼が30歳の時の「作品」だ。
ロビンソンの「作品」は、見事に功を奏し、レーガン大統領のこの演説は、その後の米ソ関係のあり方を強固なものとしながら、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊へと至る。壁崩壊の時、東ドイツの共産党書記長はホネッカーを継いだクレンツだった。モスクワに緊急電話をかけた。「東ドイツ政府は、どのように対応すればよいのか」、とゴルバチョフに「お伺い」をするためであったが、ゴルバチョフは、クレンツからの「問い合わせ」の電話をとることはなかったという。
ゴルバチョフを最も信頼した男、それは、ホネッカーでもなく、クレンツでもなく、レーガン大統領であった、と言えるのでありましょうか。