大きな岩を見ている時、ふとこの岩が砂粒になるのはいつだろうと考えてしまいました。それはもう自分が生きている時間の単位では想像もつかないことなのですが....。そもそも、この大きな石が砂粒になどなるのだろうか、とも思います。
もし岩が砂になるのだとすると、おびただしい砂たちが、石や岩だった世界はどんな状態だったのだろう、とも思います。
久々の露天風呂で見かけた大きな岩が、人々が手を掛けたり、雨だれがあたった部分だけ、ほんの少し形を変えているのを見つけました。この岩が半分になるのは、いつのことか分かりません。突発的な衝撃で真っ二つになったり、粉々になる可能性はありますが、それでも小さな砂粒になるには、さらに色んな道をたどらなければならないでしょう。
どんなに大きな岩も風や水や熱や寒さで脆くなり、やがては崩れ落ちるのでしょう。この自然は、こうした流れの中で私たちと共に過ごしています。それを静かに思いめぐらす私たちと、それを包み込む自然。
自分の中の石に気づくきっかけはさまざまでしょうが、一度気がつくと、至る所で行く手を阻み、苦痛や困惑、失意の根源となっている......ほとんど絶望的と思われる頑固で、ねじれていて、執拗にまとわりつくもの。それが自分自身の中にある。
こんなものがいつの間に心の中に居座っていたのか...横柄で高慢で愚かしい考えを生み出すものが....。意地悪だったり、あまのじゃくだったり、知ったかぶりをしたり...。まあ、この調子で書き綴るととりとめがなくなるでしょう。
それはだれかの話であって、自分のことじゃない?いや、紛れもなく自分自身の心の中にあるのではないか。若者が、フルートを手渡される前に見せられた鏡。鏡の光が目にあたった時、若者は目の前が真っ暗になる.....そこに不可解で知恵深い自らの石を見る。
ラブフルートの旅を始られる方に、時折、これは長い忍耐を伴う旅の始まりになると思いますが、恐れず、ためらわず、この笛と一緒に歩き続けてみてくださいとお話しすることがあります。
素朴な事実を、複雑な用語や手段でもっともらしく説明し、手助けとは程遠い困惑へと誘い込む世界。これぞ本質、真理、確かなものだと声を上げ、旗印を掲げる人々。自分自身の中の石を正当化して歩む世界。
いつ、人は都合よく作り上げた自分自身のイメージから実態に向かうのでしょう....その道は隠された知恵の中にあるような気がします。その知恵の一つが、ラブフルートなのかもしれません.....。
人生の旅の途上で出会った愛の笛を吹き続けていくうちに、いつしか石はその生涯(与えられた時間)を通してゆっくりと変化して行くような気がします。
いつしか小さくなった砂粒も、口に入ればガリっと全身に響きます。肉体よりもはるかに敏感で繊細な心が、砂粒が風になる時まで、くじけませんように.......。笛の音、その響きが風になる道を伝えてくれますように....。