2016/5/9

音の世界を知るひとつの試み  ラブフルート

音の響きをダイレクトに紙に描く。とても簡単で、誰でも直ぐに体験することが出来る。音絵楽ライブと称して、いわゆる音楽と絵画のコラボレーションとはスタンスが違う。

これは入院中にふと感じて実践した事から始まり、この4月に大分の某アトリエで自分以外の人にも体験してもらった。そして予想以上に興味深い体験になった。

この体験を象徴的な言葉で表現するのは後回しにして、このワークのポイントを上げてみたいと思う。特徴的なのは、音楽が始まってから終わるまで、集中して表現し続けることだろう。聴いて感じて、イメージを表現するのではなく、音そのものと直結した表現になることがポイントになる。

一瞬の中に多くの音が共鳴する時は、強く感じる音だけを象徴的に描くのか、トータルな響きをひとまとめにして描くのか、はたまたどんな表現になあるのか、瞬間的に選択し、次の瞬間に向かう。それは音楽が終わるまで続く。

なかなか集中力を必要とするワークになる。滑降を始めたスキーヤーのように一気に滑り降りる。思考ではなく、音が行動に直結する。片手でも両手でも、表現する媒体は問わないし制約はない。

用紙の大きさも自由。音楽の種類も問わない。ただ、長時間の音楽になると情報量が多すぎて手に負えなくなるだろう。その場合は、音の多様さをどのように象徴かするかが鍵になるだろう。

今回は3つのアプローチをした。最初は、ヒーリング系の音楽をスマートフォンからBluetooth で飛ばしてみた。次に、CDでドラムとフルートだけの演奏を流して描いてみた。描き終えてから、それぞれの絵をしばし眺め、感じたことをシェアした。その後、絵を見ながら再度同じ音楽を聴いてみた。とても興味深いことが現れた。音のエネルギーが絵と繋がっていることに気付く体験になった。

最後は生でラブフルートを吹き、それを聴きながら描くことにした。音の素朴さもあり、空気感も全く異なる空間になった。参加者に共通していたのは、CDで音を拾うのと、生音では全く感覚が異なり、表現も明らかに違ったという感覚だった。生音の響きは、直接ハートに届き、一体化する。この感覚は興味深い。

そこでは、音の響きと描くという行為と心が一つになり、区別がなくなるという体感があったということだった。

音楽が何なのか。音の響きと僕らの心とどんな関係があるのか。かつ、視覚的に表現する事との関係性も、まだまだ気付く事がありそうだ。

表現された絵に後から色を載せることも試みた。それは、音の響きの瞬間表現とは違う世界を見せているような気がする。

このワークショップは、人前で見せるためのパフォーマンスではない点も大切なポイントになる。また、高額の参加費を求めることも避けるのが良いだろう。金銭的要素によって、人の心は明らかに変化し、可能な限りピュアであることを妨げるだろう。純粋に、素朴に楽しみ、感じる空間は、許される限り自由で金銭的負担から解放され、それを望む人が戸惑いなく加われるものでありたい。自由カンパで動ければベストだろう。

参加者は画材も絵筆や鉛筆を持参を原則にしながら、必要な時は負担が大きくなりすぎない範囲で呼び掛け人などが準備する事があっても良いかも知れない。クリックすると元のサイズで表示します
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2016/4/1

立ち位置を確かめて  ラブフルート

気が付けば、昨年の10月からブログの更新が出来ていなかった。

ほぼ半年の時間が過ぎ、その間に様々なことがあり、その都度思う事もありながら、SNSへの手短な書き込みで済ませてきた。

1日の中で書き物が出来る時間は限られている。一度文字化してしまったことを、あえてさらに書き直すには、十分な気力が必要になる。

自己処理的な意味や活動の告知などでその時なりに投稿するスタイル。それは、次々と流れ去り、毎日素通りしていく新聞のようだ。その場のリアクションを期待する行為とも言える。

数多く発信すれば、いつもの事として処理され、投稿内容を十分に読みながら考える対象とはならないだろう。伝達媒体を内容に合わせて選択する必要がある。

いつでも必要な時に読み返し、ゆっくりと読み進める。それは、書物に勝るものは無い。だが、その中間的な役割としてはブログのほうがいいだろうと思いながら、だとしたら何を書くかと考えているうちに時間が流れ去った。

何故、こんな事を書くのか。簡単な理由がある。
それは、ラブフルートを奏でる事と繋がるな〜と感じて来いるからだ。次々とめくるめくように、或いは、強いメッセージを込めて…。さらには、あちらこちらで演奏する。それは、SNSの投稿に似ているなと…。

味わい、聴き返し、全身に染み込ませるようなプロセスとは違う音楽。次々と消化する作業のような音楽。消費経済のアイテムのひとつでもある音楽は、飲食やゲームの類と同類なのかもしれない。

流れに乗っている時は、それなりに楽しいのだけれど、ふと立ち止まると心の中にポッカリ空洞が出来ていることに気付くかもしれない。自分は何を求めているのか、何処に向かっているのか、そういう自己存在の根源への問い掛けは生涯続くだろう。

言い換えれば、人は何処で何をどうやって過ごしたとしても、根源的なことに直面するだろうし、まるで、全ての出来事が、結局その根源に向かっているようにも思える。

僕の中では、ラブフルートを奏で、或いはラブフルートを製作することは、根源的な事との繋がりに直結している。製作本数が増え、ラブフルートが広く知られるようになりますようにという発想はない。製作を続けることは変わらないが、中心軸は別の所にある。

もし、拡散し誰の手にも伝わる事が本当に大切な事ならば、別の手段があるだろうし、そこにエネルギーを注ぐ事になるだろう。結果、僕自身はラブフルートメーカーの人間という事になる。合理的で一般の皆さんが気軽に手に入れ、あの曲この曲を演奏する。こうなると、どんどん中心軸からずれてしまうだろう。時代には乗ろうとして、大切な事を失いかねない。

こんなことを考えている僕は、時代に乗り切れず、密かにショボショボと笛作りを続ける事になるだろう。随分前から予見していた事だが、実際、アメリカからのフルートが大量に流れ込み、インディアンフルート教室も類も始まっている。こうしたアメリカ寄りの流れは、フルートに限った事では無い。あらゆるジャンルで、北米や北欧のセミナーが流れ込んでくる。インディアンが大切にしてきた本質的な事はともかく、まずフルートがあり、吹き始めるという流れ。これはどうにも止められないものになっていくだろう。

僕はその良し悪しを云々しようと思っているわけでは無い。ちゃんと自分がいて、それが何なのかしっかりと見極める視点、広い視野が必要だろうなと思っているだけだ。

様々な場所で活発に演奏活動をし、イメージを広げるという発想もない。勿論、何もしないという事ではないし、それなりに希望が出て来れば動くことにはなるが、積極的に宣伝しラブフルートが祭り上げられるような事にはらない様にと思っている。

日本ではまだまだ演奏家の類は少ないけれど、アメリカのサイトに行けば、有り余るほどのフルート製作者や演奏家がいる。僕の手持ちのCDだけでも60枚ほどあるのだが、演奏のスタイルは実に様々だ。

僕自身には、もともと無いのだけれど、それらしい謳い文句やプロフィールなども邪魔になると感じている。自分という存在が消え去って、木々の響きだけが人の心に届けばいいと心底思っている。風の流れ、雲や光、囀る小鳥たちには到底及ばないし、1羽の小鳥は自分の名前を誇示などしない。

あれこれ曰く付きの曲とか、あの曲、あの歌といった類の焼き直しの様なメロディーを再現する事にも、殆ど心を惹かれない。それはそれで十分に素晴らしいし、否定しているわけでは無いし、そこでも自分を知る事は出来ると思う。ただ、自分には模倣して演じる音楽に時間を費やす余裕が無いのだ。

今そこで生きている人の心と樹の響きが繋がって生まれてくる瞬間の音色、音の移ろい。或いは、奏でられた響きと、耳を傾け、心を寄せる人たちと共有する響きの瞬間。

それが、いまここに生きているという強い感覚を与えてくれるように思っている。こうした考えがあって、あまり広がらない演奏活動とあまり売れないラブフルート製作を続けている。既成の価値観に繋がり、その音を基準に生み出されるラブフルートの製作は続けて行くのだけれど、本当にやりたい事は少し違っている。

このように書くと、彼はもう普通のラブフルートを作っていない、作らないなんて言う話にもなりかねない。だから、誤解を回避して何も書かない方が賢明かもしれない。

当然、基準的な音程の中にも、当然素晴らしい世界があり、美しさがあると感じているし、それなりに作り続けるつもりだ。ただ、大きな流れの中で、音の世界と人の心に必要なこととのバランスを取り続ける必要があるかと思っている。そのバランスのためのひとつの試みとして、クローズドフルートやオリジナル音階のラブフルートを製作しているつもりなのだが…。

僕が何をどんな風に演奏するか、或いは言葉にするか、そんな事以上に、樹々は深くて多様で美しい響きを持っている。それこそを分かち合いたいと思っている。自分が消滅し、木の響きそのものが浮かび上がる。そんなことをふわふわっと考えている。

というわけで、SNSで書くと誤解を招きかねない事を、ブログではどうなって行くのかなあ〜と思いつつ、書いてみた。

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2015/10/27

原 生 林 の 歌  ラブフルート

この10月にポールワグナーとのライブがありました。ライブの打ち合わせのベースは、この土地の原生林の中にあるという直感があった。それは、彼と出会う前に急遽決まったガイアシンフォニー第八番の上映会後のラブフルート演奏と繋がっている。

上映会の日程を間違うというプレゼント。この日程の間違いは、木の響きと歩んできた自分にとって大切なものだった。この日、ふと3000年前に人々が生きていた時の土器などが採掘されたカリンバ遺跡に向かった。遺跡のそばに併設された公園に足を運んだ。

このとき、最初に足を踏み入れたのは、公園ではなく、すぐ側にある原生林だった。心地よい風、木洩れ陽、揺れる木々や草花。その中で、ただただドラムを叩き、与えられているいのちになって過ごした。

淡々といのちを繋いで生きている木々や草花の中で、人間はなんと未熟な存在なのか痛感した。東北地方訪問で新たに感じた事、その翌日のチャリティーライブに向かう途中で車に落雷があった事、チャリティーライブの空間で感じた事、日程の間違い、それは原生林に繋がっていた。

残された時間、何が必要なのか、新たなスタンスでラブフルートの製作や演奏を始めなければという思いが生まれ、どんな道を辿れば良いのかを伝える風がやって来たのだ。


原生林の中で、チューニングされたラブフルートを吹くと、違和感を感じる。自然の中でイヤホンで音楽を聴いたり、お気に入りの音楽をスピーカーで拡声しているのと似た感じがある。狭い世界、狭い視野、限定された世界の中で賞賛し合う社会のもろさを感じる。人間集団の中で形成された価値観や自己表明と原生林と一体になって生きてきたいのちたちとの距離感を感じた。

風になり、木や草や花、雨、川、海、大地そのものを感じ繋がっていたい。そんな感覚がやって来た。死んで大地に帰ることは、望ましく、安らぎに至ること。人間の様々な価値観や主張は、一瞬で消え、荒地に新しい草や木々が淡々といのちを繋いでいく。

草の歌を知りたい、木々の歌、枝たちが交わし合う歌、大地の温かさや冷たさを感じ、雨の中に佇み、湧き上がってくる歌と溶け合いたい。木々は天を指し示し、自由自在に枝を伸ばし、葉を茂らせ、それぞれの花を咲かせ、実を実らせ、鳥や風に種を任せ、新たないのちを大地に生きる。それぞれの秩序を保ちながらも、自由を知っている。木々や草たちは、風を感じ、いつだって歌ってきたのだ。

こうした思いがあって、ライブの前日にポールワグナーたちに原生林で過ごさないかと持ちかけ、ポールたちも呼びかけに応えた。ライブ当日の原生林の時間。それが、午後からのライブの流れを生んだ。

ポールワグナーの演奏、僕のラブフルート、そして二人のコラボ。簡単な打ち合わせを済ませ、後は流れに任せた。事前にポールワグナーのCDを聴いていたので、イメージが重ならないようにオリジナルスケールの演奏をベースにした。何かテーマをもたせて演奏する気持ちはなかった。率直な表現をすれば、曲なるものを吹きたくはなかった。多様性に満ちながら、豊かに調和している原生林の空間が心を占めていた。

二人の演奏で、深く心に残ったのは、僕が密やかに歌うラブフルートを吹きはじめ、木の響きを感じながらポールが声を出し、身体の奥から響きをあらわした時間だった。互いに予測しなかったけれど、とても自然で深く豊かな時間だった。そのまま眠りにつき、夜明けを迎えたいと思った。そこに何があり、何が起こったのか、あえて言葉にする必要はないだろう。

次に僕が何をするのか、その幻を垣間見た。それは、これまでのスタンスと全く違うものかも知れない。今に至る生き方も、予測していたわけではないけれど、様々なシグナルが知恵深く用意されてきた。多分、残りの道程にも、既にシグナルは巧みに点滅しているのだろう。いのちを喜び、歌いながら、 もう少しいのちを楽しませていただこう。

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2015/9/1

よろこびと空洞体験から次に向かう  雑感

小さな種粒が思いもよらぬ収穫をもたらす。つい最近、体験した集まりの中で、その一端を感じることになった。かつて勤務していた某高校の吹奏楽部のOB会に参加した。

思いがけず、年月を重ね、当時の学生たちが社会の中核を担って生きている様子を知ることとなった。当時は、様々な状況が繋がり、僕は吹奏楽部誕生のスタートのきっかけとなった。地元の高校の吹奏楽部に所属していたのだが、卒業後市役所の社会教育課に勤務した。その後、地元の別の高校の移管業務のために出向、後に北海道教育局からの出向で道立高校に勤務することになった。

そこで、眠っていた15人編成の吹奏楽器と出会い、メンテナンスを兼ねて試奏したことがきっかけだった当時の校長から、入学式に校歌を演奏して欲しいという要望があり、編曲し演奏を指導することになった。演奏に感動した校長が、教頭と相談し顧問にしたいと望んだ教師が翌年赴任。

こうして顧問と演奏指導者の共同作業が始まった。僕は実習助手から行政職になり、指導に直接関われる時間に制約が出始めた。それでも、随分と厚遇され生徒たちと過ごす時間が与えられていた。当時は、地方への転勤を促されながらも、吹奏楽の指導継続を望んでお断りした。

何もわから無い学生たちに、それぞれの楽器との取り組み方を、手取り足取り、運指やブレスの仕方、楽譜の読み方、リズムの合わせ方、楽曲の理解など、ひとつひとつ伝えること、全体をまとめることに力を注いだ。ゼロからのスタートは、かなりのエネルギーを必要としたけれど、徐々に成長する姿を見るのは楽しみでもあった。

年齢差は大きくはなかったけれど、生徒と指導者というスタンスの違いは大きかったかも知れない。通常の勤務をこなしながら、時間を見つけては吹奏楽部の演奏指導に出向く生活が続いた。校長の理解、教え子であった事などの後押しがあり、移管業務の渦中であったからこそ
可能だった。

勤務との板挟みの中で、何とか最低限の形が見え始めて間もなく、個人的事情で公務員を辞任する事になった。それ以来、全く接点のなくなった生徒たちと再会する事になったのが、つい最近の事だ。

詳細な事情など知る術のなかった学生たちとの再会には、それなりの戸惑いがあった。学生たちにとっては、最初のきっかけになった僕の存在は、さほど重要なものではなく、仲間同士や顧問との交流の記憶が次々と蘇る時間。その嬉しさと楽しさでいっぱいの時間だっただろう。まして、指導者という立場にいた僕とは距離感があって当然でもある。

ましてや遠い記憶の中では、僕の存在はかすかな陽炎のようなものだろう。そこに集う、喜びと楽しみの原点。それは、音楽の楽しみと喜びを伝えたいという密かな思いを抱いたひとりの存在から始まった。それは確かに事実だけれど、記憶から確実に消えていくだろう。

僕自身は、彼らが辿った結婚、家庭、子供。或いは孫のいる人生とは随分とかけ離れた歩みをしてきた事を、改めて強く感じた。僕には両親を失った子供という立場しかなく、家族はいない。OB会への参加は、僕にとって過ぎ去った時間が空洞のように感じる強烈な体験でもあった。

同時に、それぞれに生きてきた学生たちの人生の尊さ感じる時間でもあった。喜ばしさとちょっとした空虚さを瞬時に受け取る時間になった。

参加を躊躇した感覚。参加を決断した感覚。それはどちらも予感通りだった。

さて、この体験時間から、残されたわずかな残り人生をどんな風に生きて、終わりを迎える事になるのだろう。少なからず、出身校の吹奏楽部体験と後に出会った吹奏楽部誕生のプロセスは、その後の人生や音との関わりの大切な土台になっている事は確かだ。

今回出会ったOBたちが、記憶の確認のプロセスから、これからの歩みの中で新たな意味で音のある人生の豊かさを感じ、具体的な交流を深め、さらに豊かな人生を受取って欲しいと感じている。

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2015/8/24

様々な樹々とラブフルート  ラブフルート

工房を始めてから、これまでにおよそ50種類の樹種でラブフルートを製作してきました。自然な流れの中で、小さな工房にやって来た樹々たちは、それぞれ個性ある響きを伝えてくれました。樹々の種類全体からすれば、ほんのわずかでしかありませんが、樹種を増やす事が目的にしているわけではありません。その時々にやってきた出会いの結果です。

樹種を特定せず、可能性を感じながらの製作から、様々なことを受け取って来ました。現在までの経験から感じているのは、高級で希少な樹種がかならずしも優れているわけではないということです。

希少な樹種も地域的な特性があります。また、樹種として希少ではなくても、様々な要素が含まれていることで希少とされるものもあります。

希少というニュアンスは誇張され過ぎないほうが良いでしょう。量産され、入手しやすい樹種というだけで希少性が無いとされやすいのですが、どうでしょう。たくさんの人が集まっていると、一人の存在が軽視されやすいのですが、ひとりの存在価値は数量との比率で決まるものでは無いでしょう。

どの樹種であれ、個性があり貴重な存在であるのだと思います。一片の樹木から木の全体を感じ、自然と一体化した生育のプロセスを感じ、さらに時を遡り、森や大地を受け取る。こうして木の断片が伝えてくれる事実を、じっくりと感じることが笛が生まれる前の大切な時間になります。

どのような樹木であれ、長い時間大地と繋がりながら生きて来たのですから、様々なストーリーを持っているでしょう。それは笛という姿に変わることで、新たな語り掛けを始めるでしょう。

自分が操る笛という視点から、木から生まれた笛のささやきに心を傾け、自らの内側にある思いに触れることになるかも知れません。

樹種の個性は、その特有の響きを感じながら、響きが生かされるような笛の作り方との繋がりがポイントかと思います。低音域から高音域、それぞれの共鳴の特性を感じること、それぞれの管体の厚みや長さ、内径、全体の構造とバランス。さらにバードの形状による音質や共鳴の違い。

一本のラブフルートは、こうした見え無いプロセスを通りながら生まれてきます。どの樹種が優れているかではなく、樹種の個性がどのように生かされるか。その響きが個々の内面とどのような繋がりをもたらすのか。

個々人の呼吸が樹々に注がれ、響きが生まれるのですが、この呼吸の状態が内面と直結しているかどうか。呼吸という肉体の動きと内面が限りなくひとつになり、それが樹々と一体化する。その状態が、周囲の空気を揺らし、自分が操る笛という視点から、木から生まれた笛のささやきに心を傾け、自らの内側にある思いに触れることになるかも知れません。音の波と心の揺らぎが不思議な繋がりになり空間を満たします。

これは音を生み出す様々な世界に共通している要素ですが、取り分けラブフルートの構造は音の響きの本質性を現す特殊な形状を持っています。作り手はその構造が意味するところを大切なポイントとして向き合う事になります。

音が出て、よく鳴る笛を作るという視点もあるのですが、個人的には前に出過ぎる響きはやや苦手です。出過ぎないようにセーブする意識が働くと、内面と繋がるよりも音をコントロールことに意識が向きやすくなりがちです。勿論、力強い響きや明るい響きのものや中間的な響きも手掛けていますし、いう響きが欲しくなる時もあります。

古い時代のラブフルートがクローズドであった事と、いまのこの時代が求めている事がどのように繋がるかは分かりません。古い時代の人々の内面と現代に生きる人々の本質に果たして違いがあるのか、表層的な現象の内奥に共通するものはどうなのか。そんな問いかけも生まれて来ます。

数百年もしくはそれ以上の年月を生きる樹々と人のいのちが繋がり、響きとなり歌となる瞬間。ラブフルートが、いのちの循環を象徴する構造であり、微細な内面の揺らぎを透明な空気の波となり、空間の造形となり、自分自身は元より、周囲の人々を音の揺らぎでと包み込む。自分の稚拙な認識が、樹々のメッセージを妨げず、そっと心を傾けられるように…。

様々な樹々が囁きかける声を受取った人々が、それぞれのメッセージを携えながら出会いの旅を続ける。微力ではあるけれど、旅の杖として少しお役に立てれば感謝です。ラブフルートは、こうした認識や体験、演奏、ワークショップ、レッスンを継続しながらゆっくりと熟成されて来たように思います。


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2015/8/20

もう少しだけ表現してみます  ラブフルート

言葉や文字にして表現した瞬間に変質し、皮肉にも実質的な要素が希薄になる。この繰り返しをどこまで続けることになるのだろう。

先のブログを書き終えて、翌朝に浮かんできたもの。存在することは、変化し続けることであると同時に内面に静寂な核を持つことでもある。自然界の様々な形態には、言葉の説明など不要。ひとつの細胞の動きを凝視する中で自ずと存在の本質と繋がっていることに気付かされる。そこには、それそのものが現れていて、絶えず僕らを事象の本質に向かうように誘っているように思う。

前回は、特定の基準にこだわらず、自己の内面と直結することをラブフルートの音との関係で表現してみた。勿論、それはラブフルートに特化した事ではなく、自分達を取り巻き、認識できる様々な事象にも共通することでもあると思う。

呼吸を使い、木と触れ、響きとなって現れる。それが心を誘うと感じる人たちは、ここから旅を始めることになるでしょう。それは木の笛を吹くというスタンスの先にあるラブフルート特有の響き方に心を動かす感覚の始まりとも言えるだろう。

それはラブフルート特有の形態に見られる響きの状態に心が動かされることかもしれない。一見素朴な木の笛ですが、その構造には循環し続け、その流れから響きが生まれるのです。さらに、この構造から生まれる響きをより豊かに感じる繊細な作業が伴います。

ラブフルートの響きそのものを感じ、生かされるためには、可能な限り原点に近い形態に触れてみるのが良さそうです。それは、先のブログでクローズドスタイルについて書いた内容と繋がります。

素材を使って、時代性に合わせるスタンスにも良さはあるのですが、素材の味そのものをじっくり味わうことの大切さを忘れないように、という視点。その辺りを中心に少し視野を広げたところに、クローズドでオリジナルなスケールのラブフルートが位置付けられているかと思います。

微細な内面の動きと直結するために、誰もがオリジナルスケールを必要とするわけではありません。個々の気づきの可能性は、スペーサーとバードという部品が可動性を持っていることにも潜んでいます。また、音程の変化が大きいというラブフルートのスタイルにも可能性は含まれています。

少し奥に進んでみることで、より豊かな世界を味わえそうだと感じられる方がおられましたら、お声がけください…知的領域を刺激し言葉を駆使する方にとっては真逆の領域かもしれませんが、じっくりと呼吸し木の響きを感じる素朴で奥深い世界の体験には深い知恵が潜んでいるように思います。

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2015/5/31

自分という響き  ラブフルート

何故そうでなければならないのか。
何がそれを、そうでなければならないと決めるのか。
一見最もそうな主張や説明がまかり通り、一様に前提を掲げ、従属を正当化する。
真顔で体制なるものへの隷属を、これこそ唯一無二の信条であると強調する。

それは様々な領域で少なからず生まれてくる現象です。群れを作り、身の安全と主義主張を反復し、意識を刺激し、持続性を保とうとする。特定の主義主張、価値観の強調で人の群れを作る。そこには、そこの正義があり、結果的にさまざまな確執や対立が派生し、別の群れが生まれる。

混沌から秩序、秩序という正義には権威が伴い、権威は抑圧と強制を連れてくる。自由と秩序のために権力が正当化され、従属を前提とした自由を正当化する。

今回は少し視点を変えて、やや硬い印象の言葉を使ってみました。人間がいるところには、少なからず先に書いたことが、見え隠れするように思います。それは、自分自身の内面の確執に始まり、特定の人間関係にも起こります。少人数と大人数では、固有の事象が起きますが、根底には同じような現象が見えているように思います。

実際は、安定性の低い笛、ラブフルートを作る中で先に書いたような事柄を直接感じています。社会の現象は当然音楽の世界とも繋がっている。音楽の世界の価値観も社会の一部分であり、必然的に類似性、同質性が見られます。

人間のすることですから、音楽というツールにも力関係や秩序と自由の確執は起こるわけです。それは人間同士の問題でもあるのですが、ここでは音やその形態に絞ってみます。

端的に言えば、特定の基準を設けるか、基準を無くすか。この二つに大きく分かれます。基準にはいくつか種類があるのですが、国際基準音を軸にしてスケールを決め音階を作る方法です。現在の音楽の大半は、この流れに即しています。とりわけ可能な限り厳格に音程を保ち、調和を維持するスタンスを前提としているのはクラシックの世界でしょう。

それが基準だという価値観を前提にすれば、その他のものは亜流とみなされ、存在を軽視されかねません。これにたいして、民族音楽の世界では、それぞれの地域に密着した価値観、感性で音楽が生まれています。幸いにも、音楽の世界では絶対的権威が台頭して、音楽に関わるものは全員掲げられた基準に従うようにという強制はありません。

ただ、前提としてドレミ音階を基準に音楽を形成している場合は、暗黙のうちに、しかも自主的に決められた特定の周波数に合わせているわけです。後は組み合わせの選択作業をしていくわけです。勿論、このプロセスの中で十分楽しさも喜びも生まれますし、音楽の特性は変わらないでしょう。

ここではその組合せや継続作業では触れることの出来ない音の世界について少し触れようとしています。

基準を外した音楽自体がかなり希少なので、理解するのは難しいかもしれませんので、もう少し具体的に説明してみます。

笛を作るとき、基準値に合わせようとせず、形として生まれてきた状態そのものを感じ、受取る。さらに、そこに生まれてきた音ともう一つ別の音との関係を感じ、繋がりを受け取ります。この流れを、与えられ指穴全体に展開していきます。

一見単純な印象ですが、実際にはかなり複雑で根気を必要とする作業です。ひとつの音に変化が起これば全体との関係性は全く異なったものになります。ここでは、ひたすら浮かび上がり響いて来る音と自分自身との関係が問われ続けます。

それで良し、これで良しという選択の根拠は、あくまでも自分自身の内奥にあります。なんらかの物差しに合わせるのであれば、ひたすら合わせるための作業が中心になりますが、合わせるのはどこまでも自分の感性との関係になります。

となれば、自分自身はどんな音、どんな響きを良しとするのかを問われます。ある特定の音階と離れて、体験した事のない響きの世界を浮遊することになります。与えられた価値観(響き)に同調し、同意するのではなく、どこまでも只々そこに生まれてきた響きと自己の中心との関係を見出していくことになります。

かなり小刻みに揺れ動く周波数の中をさまよい、自分自身の内面に直結する響きと出会う瞬間。そこから派生する、次の響きとの関係性と内面性。そこには周波数と同時に波形の特性を生み出す樹種との関係も重要になります。ついでに言えば、その瞬間の自分自身の呼吸や身体や意識の全体性との関係も重要になります。

生まれてきた響きに対して安易に迎合せず、しっかり符合するまで求め続ける忍耐と謙虚さと事象全体への信頼が必要になります。違うものには違うという明確な姿勢、符合した時には確かにそうだという認識と直感と決断のバランスが必要になります。

自分だけの響きを持つマイフルートは、他の音楽からは違和感を感じ、軽視、もしくは無視、さらには非難や否定さえ招くかもしれません。

ただ、確かにこれが私自身の響きであると知るならば、それを揺るがすものは何もないことに気付くでしょう。

それは主張でも、価値観の提示でもなく、自分自身であることそのものの響きなのです。変化し続けながらも、より豊かに自分自身である中心軸が明瞭になるプロセス。そういう旅の友にラブフルートを求める方。その出会い。

それは言葉の羅列や説明ではなく、抽象的概念でもなく、木々の響きそのものとして鮮明に浮かび上がり、感じ取り受け取ることができる。そういう実質を求め、受取る旅人との出会い旅。もう少し楽しめるかな…



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2015/5/13

夕張合宿の宿・ひまわりでお伝えしたこと その2  ラブフルート

夕張 合宿の宿 ひまわり 千歳北陽高校の一年生と過ごした時間の後半の流れを書き留めてみます。全体性を土台にし、多面的視点を持つ生き方。象徴的に球体として生きると表現し、その断片的な要素を磁極の特性としてお伝えし、いつかこうした認識の大切さに気付く機会があればと思いつつの時間でした。

 今回のお話しで大切にしたのは、あれこれと具体的手段を提示したり誘導しないということでした。言われたことを実行する忠実さは、ある意味扱いやすい人間を量産し、行動にまとまりを持たせることになるでしょう。それは、ある領域では必要ですが、同時に危険性も孕むでしょう。

 社会的秩序(全体性)と個(個性)の尊重。これを言葉にしたり、何らかの説明的概念を示すことはできるでしょうが、実際的で具体的な事柄となると、必ずしもバランスがとれる訳ではありません。最終的には、全体の秩序を理由に個が抑圧され、退けられる事が少なくありません。

 この辺りの現実的で矛盾を孕む要素を徹底して吟味する作業が軽視され、取り敢えず結論を出す。その繰り返しが固定化され枯渇した暗黙の意識を形成しやすいように思います。

 僕自身が、真摯に大切だと感じることをお伝えする姿勢を持つこと。それは殊更強調するようなものではありませんが、やはりどこかではっきりと確認しながら生きていく必要がありそうです。

 東北支援というひとつの出来事に限定せず、ひとりひとりが自分の中心軸から発想すること。頭で考えたり認識することで終わらず、具体的に実際に行動しながら進むことの大切さをお伝えしました。

 被災地の厳しい現状を凝視することで、なにか具体的な動きが生まれるだろうか。その事例や可能性を示すことはやめ、自分なりに考え、選択し、一歩を踏み出す。ひとりでも、足をむずむずさせ、動き出してみる姿が生まれればと、じっと待つ。これが今回の土台でした。

 学生たちが、保育園の子供たち一人一人のために手紙を書き、交流をする。室内保育の助けになる事を考え出すなどなど。これは、現地のニーズと付き合わせ、相互の交流が形式的な段階から、より率直に思いを表現できる関係を築きながら根気よく歩む必要があります。

 現在、5度目の東北訪問の準備を始めていますが、状況は絶えず変化し続けていますからギリギリまで試行錯誤を繰り返すことになるでしょう。誰かが答えを持っているわけではありませんから、具体的直接的に行動するひとりの存在が鍵になります。

 後半は、ひとりの人間が思いを抱き、行動することが、どれほど大切で大きな変化をもたらすかをお伝えしました。集団の中では、自分が小さな存在にすぎず、なにもできないなという感覚が出やすいものです。

 このとき、同行してくださった皆さんの紹介をし、具体的実際的な事例を目の前で知っていただきました。太陽光と繋がりながらいきる事がもたらす意識の変化、生活の変化を伝えるためにひとりで全国を回る早川さん。彼が、呼び掛けに答えて被災地からの避難者家族の遊び場・ソドデアソビダイベシタにソーラーエネルギーで真っ暗闇の山の中に明かりを灯したこと。そして、いま皆さんの前に来て、太陽光のエネルギーで音響装置に必要な電力を供給しておられることをお伝えしました。

 また、合宿直前に出会ったYさんが、千歳北陽高校の卒業生であり、皆さんと出会うために集われ、オーストラリア先住民の楽器ディジュを一緒に演奏してくださること。そのひとりの行動が、こうして多くの皆さんとの出会いをもたらすこと。

 さらには、東北支援活動をコツコツ続けていくなかで、新聞に掲載された活動を知って電話を下さったSさんを紹介しました。彼女は千歳北陽高校の卒業生ではありませんが、僕の高校時代に隣のクラスにいてバレーボール部で活躍していた女子高生でした。

 こうして、たったひとりの人間が、心に決めたことを具体的に行動するときに何が起こるかを実際に知っていただければと当人たちを目の前にしてお伝えしました。

 ひとりの大切さと同時に、ひとりを大切にして理解し、手を繋いでくれる存在の大きさをお伝えしました。最初の一歩のひとりにもなれるし、ひとりを大切にする友になることもできる人生の豊かさをお伝えしました。

 最後は、今回のお話しとラブフルートとドラムの演奏を皆さんに伝えたいと願ったひとりの人、塩野さん。ひとりではなかなか先に進めなかった時、それは良いかもしれないと同調してくれる先生がおられたこと。そばにいて寄り添う存在が、この場を産み出したことをお伝えし、ダブルフルートの演奏をして終わりました。

 終わってから、数名の学生さんが会いに来て下さり、丁寧にお礼をされたり、感謝や感動の思いを伝えてくださいました。

 お話し中で、皆さんの中に、ひとりでも耳を傾け、心を寄せ、何かを感じてくださるかたがおられたら十分満足ですとお伝えしました。

嬉しいことに、ダブルフルートの響きに深く感動し、うっすらと涙を浮かべながら握手を求めて来られた男子学生のキラキラした顔がしっかり心の中に飛び込んできました。

学級委員長になって、いろんな事で悩んだり迷っていたけれど、お話しを聞いてとても勇気が出ましたと伝えてくれた女子学生とそのお友だち。

いまにも泣き出しそうな表情で、僕はとても大変な思いの中にいて、とても苦しく辛い状態でした。今日のお話しは、僕にとってとても大切で必要なことがたくさんありましたといいながら、何度も握手を求められた男子学生。

 千歳北陽高校の皆さんとのひとときは、次の物語へと続いていくことと思います。ひとまず、ここでひと休みさせていただきます。

 後日、公的礼状を郵送ではなく、直接お渡ししたいと塩野さんが自宅まで足を運んでこられました。こういう姿勢で生きておられる教師がおられること、その出会いは小さいけれど、しっかり心にとどまり、力になります。

SNSで済ませず、郵送で済ませず、時間をさき、直接顔を会わせて思いを伝える。これは東北の活動の姿勢に通じるものです。

 合宿後のある日、塩野さんが小さく足踏みをしていると、数名の学生が足踏みでセッションしてくれた...と嬉しそうに話してくださいました。あの合宿のときのみんなの足踏みドラムが密かに続いているのだとしたら、ちょっとニンマリです。クリックすると元のサイズで表示します
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2015/5/9

合宿の宿 ひまわりでお伝えしたこと・その1  雑感

夕張 合宿の宿でお伝えした事を数回に分けて投稿してみます。

一人の人間が多数の皆さんにお話をすること。それはとても複雑な状況を生み出します。 それは一対一、もしくは複数の人との対話の複雑さとはかなりニュアンスが異なります。そのあたりの課題を、何度もシュミレーションしながら当日を迎えました。

実際、被災地の実状の一端をお伝えしている時に、涙が止まらない女子高生の姿が目に留まりました。その方の事は何も知らないまま話を進める事になりました。逆に、全く関心を示さず私語の世界を楽しんでいる姿も見えました。

そんな中で、最初にお伝えしたのは、目の前の事柄だけに気を奪われず、全体性を持って生きる事の大切さでした。自分を中心に物事を見て慌てて判断をしない事。前も後ろも、右も左も、上も下もよく見渡し、人間だけを中心に捉えない事。その大切さをお伝えしました。さもないと、僕たちは簡単に人の言葉や情報に振り回されてしまいます。単純な思い込みで物事を判断してしまいます。そんな事をお話をしました。それは、震災をどう捉えるか、或いは原発の状況をどう捉えるのかといった現状の具体例を提示するスタンスでは無く、それらも含めた全体的な事柄としてお伝えしました。

これは球体のように全体性を持って生きるということなのですが、この時は磁石のプラスとマイナスの関係を中心にお伝えしました。相対的認識の限界性、盲点に留意するということなのですが、生徒の皆さんには、物事を単純に肯定したり否定せず、全体を見渡しながら、自分の心の内側にあるものに忠実に生きること。自分の心が決めたことを、恐れず勇気を持って踏み出すこと。過ちに気付いたら、しっかり受け止めて道を正す勇気を持つ事。中心軸から全方向に放射すること。周囲の全方向から自己の中心軸に向かうこと。それを、磁極を例にし、簡略化してお伝えしました。

人生は一歩、一歩進んでいくものだから、頭の中で考えたり情報をたくさん手に入れたとしても、実際にどういう行動をするかが大切じゃないだろうか。その時の自分に出来る範囲で広く捉えて、そうだと思う一歩を具体的に踏み出す事。その一つの具体例が僕のような活動になっていることをお伝えしました。

続いて、被災地で何をしているのかをお伝えしました。いのちの原点である鼓動をドラムを共に叩く事で実感すること。もう一つは、いのちの呼吸を感じること。あらゆる違いを超えて繋がっているいのちの原点に立って、自分はどう生きるかを確かめ、感じる時間を過ごすこと。そこでは、何か具体的な方向性を提示するのでは無く、ひとりひとりが自分の道を歩き出すきっかけを静かに伝えていること。

こんなお話をし、全員で立ち上がって鼓動を感じ、大地を自分の足で踏みしめる時間を持ちました。

自分が与えられている全てを惜しみなく受け取って、全身で心から生きること。その勇気をいのちの鼓動が教えてくれること。それが、前半の中心的なテーマでした。

それは、単なるお話では無く、具体的に鼓動を感じ、確かめ、足踏みと共にドラムの響きを感じる時間でした。

次回は、この後の流れをお伝えしてみたいと思います。

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2015/5/8

合宿の宿ひまわり・千歳北陽高校の皆さんとの時間  ラブフルート

月夜の宴のストーリーは続いていました。2013・6・22スーパームーンの夜から翌朝まで叩き続けたドラムは、2015・4・27の夕張 合宿の宿の高校一年生たちの鼓動と繋がりました。

宴に参加しておられた千歳北陽高校の塩野さん(先生と呼ばれるのが嫌いとのことでしたので…あえて塩野さんとさせていただきます)が、この時の体験をなんらかの形で生徒の皆さんに感じてもらいたいと願っておられました。

ラブフルートの音色とドラムの響を、公立高校で実現することは必ずしも容易ではありません。僕自身、公立高校に勤務していた経緯もありましたから、道が開かれる可能性の低さを感じていました。

ただ、この世界には、たった一人のために扉が開かれる知恵深い道があることを知らされて来ましたので、ゆるやかにその機会を待っていました。

重い扉は塩野さんの純粋な思いの鍵とサポートする仲間によって開かれました。久しく遠ざかっていた高校生たちの姿を見るために、入学前のオリエンテーションに参加させていただき、その後は時間を見つけては、何をどのように届けようか試行錯誤を繰り返しました。

ことが実現する喜びと同時に、果たして上手く行くのだろうかという不安を抱え、塩野さんは再三コンタクトの為に出掛けてこられたり、メッセージのやり取りをされました。この姿勢の全てが当日の時間の土台となりました。

東北地方訪問に伴う活動の内容と状況をお伝えし、ここからどんな風に歩んで行こうか…というお話とラブフルートの響、そしていのちの鼓動を象徴するドラムを叩き歌う時間をいただきました。

なぜ、被災地でラブフルートを響かせドラムを叩き、みなさんと一緒に過ごすのか。その片鱗を感じていただく時間を取らせていただきました。

体育座りの皆さんに、自由にフルートやドラムに触れてみてくださいと呼びかけた途端、広い体育館の空気が一変しました。若いエネルギーがドラムや笛や声と共に弾けました。

整然とした秩序とは真逆の時間の大切さを感じる時間でした。周囲を忘れて、夢中で弾けるエネルギーの中から大切なものが生まれていくのです。一見混沌としているようですが、それは固定化され、制御しようとする社会に新たな方向性を見い出す大切なプロセスだと思います。

夢中でドラムを打ち鳴らし、仲間の歌声に歓喜し、時に涙を流す皆さんの姿に真近で触れる時間をいただきました。

この時お伝えした内容は、少し分割してブログに掲載したいと思っています。この時間の為に、オフグリット太陽光発電を伝え、東北支援にも協力くださった早川さん(演奏のための電源をソーラーパネルから供給してくださいました)を始め、奇しくも北陽高校の卒業生だった山本さんにはディジュリドゥの演奏の協力をいただきました。この他に高橋さん、菅原さんのサポートもいただきました。5人で出向いて、何とかギリギリで実現した時間でした。

北陽高校の教職者の皆さんも積極的に手助けしてくださいました。この協調性を土台とした全体のバランスが戸惑いがちな新入生たちをしっかり支え、お互いの存在を大切にする流れになる事を楽しみに夕張を去りました。クリックすると元のサイズで表示します
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2015/5/8

クローズドタイプのラブフルート  ラブフルート

ここ数年、ラブフルートのオーダーは変化しています。年に数本しかなかった、オリジナルスケールのフルートを望む人が着実に増えています。

 さらにクローズドタイプのラブフルートの希望者も確実に増えています。これは古い時代のラブフルートのスタイルへの回
帰とも言えるでしょう。

 音量が乏しく、揺らぎの大きいラブフルートは、パフォーマンスの要素が前提の音楽の演奏には不向きであり、時流の変化とともに激減していましたが、白人たちがラブフルートの魅力に注目し始め、新たなスタンスで拡がり始めました。

 このとき、求められたのは、可能な限り音量が豊かであり、パフォーマンス性が高いことでした。音楽が人前で聞いてもらうものという前提で、ラブフルートが製作されてきました。

 こうした傾向はいまも継承されています。それはアメリカで製作されているラブフルートの構造の特徴を見ると良く分かります。強いブレスで吹く傾向が見られます。もちろん、製作者の個性がありますから、弱く柔らかな響きのラブフルートを好む方もおられます。

 とはいえ、クローズドスタイルのラブフルートとなると、かなり限られたものになります。吹いても全然目立たないし、ましてやステージには向かないですから、作っても売れない。必要だと感じる人は少ないので、採算性が期待できないでしょう。

 楽器の演奏が、ある種のストレス発散やパフォーマンスと結び付き、聞かせることが目的になり始めると当然音量が乏しくあまり響かない笛は居場所を無くし始めて当然でしょう。

 自己形成を基点に生きるという土台が稀薄なまま、自分を表現し、関係性を維持しようとする傾向が強い時代では、音楽の意味も時代性と結び付くわけです。

 別の表現をすれば、誰もが自分の価値観や認識を明確にし、提示することが求められますし、それが生きるスタンスになっているとも言えるでしょう。

 これはある意味、自己抑圧的な時代性の中で生きてきた人々にとっては、望ましい変化と思われてきたかもしれません。しかし、自己の基盤が脆弱なまま自己表現を試みると、人生が空洞化しやすいように感じます。

 自分の内実に伴う響きをじっくりと育む。小さな種火を大切に育み、必要な灯りと暖かさを保つ。やがて、その存在に気づいた人々が、いつとはなしに集い始め、心を寄せ始める。

 クローズドスタイルのラブフルートは、密やかな響きの中で深くて暖かな灯火のように、求める人々の足元を照らしてくれる。そんな響きを持っています。

 ともすれば、たくさんの知識や情報に埋もれがちな時代の中に、なぜ、敢えて微かな呼吸で響く木の笛が存在するのか...

 その深意に触れ、気付き、出会う人々との旅。許される限り楽しみ、心のままにもう少し歩いてみよう.....
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2015/3/30

風の絵筆  ラブフルート

 ラブフルートの構造の固有性は文字でお伝えするのは難しい。それでも何らかの可能性を模索しながら地道に書き留めてみようと思う。

 前回はスペーサーとバードの関係が音のニュアンスの重要なポンイントであり、響きの源になることをお伝えしたが、この部分をもう少し書き加えてみたい。

 音のニュアンスを絵筆に置き換えて表現してみよう。音を絵筆の違いで表現すると、平筆なのか、丸筆なのか、面相筆なのかといった違いに例えられるかもしれない。どんな筆先で描くかによって表現される絵には明らかな違いが生まれる。

 絵画の場合には絵筆を持ち替えて必要な表現を試みることができる。この筆先の違いがラブフルートのスペーサーとバードと考えてみる。筆の幅はスペーサーの幅であり、ラブフルート工房の場合は6.2mmになる。

 筆の太さに当たる部分は、スペーサー厚みの0.8mmとなる。筆先の長さはフルート本体の前室と風を受ける本体下側までのアプローチの長さに当たる。

 ラブフルートはこの空気の流れを作るスペース全体から生まれてくることになる。呼吸が風の絵筆になり、透明で立体的な空間のキャンバスに音の色彩が自在に踊るといった感覚になる。

 薄くて幅広の音の絵筆は呼吸ひとつで繊細な表現が可能だ。呼吸の繊細な動きと微細な心の動きとが繋がることが可能なのだ。

 ラブフルートが呼吸と心の奥に潜む思いを繋ぐ不思議な存在であることを考えれば、強い吹き込みや表現で鳴らす構造は少しニュアンスの違いがありそうだ。それはラブフルート本体の歌口からバードまでの空間、スペースの意味を注意深くとらえ、大切にすることでもあるだろう。

 どんなに勇猛果敢な人間も、心に関してはちょっとしたことで傷ついてしまう繊細な部分があるように思う。その微妙な心の動きと連動する構造のラブフルートを産み出そうと神経を使うのは必然だろう。スペーサーの厚みが0.1mm違うことで、心のわずかな動きを表現することが難しくなる。あるていどプレッシャーをかけなければ鳴らない構造だと、静けさやふとした心の変化と連動することは断念しなければならないかもしれない。

 微細なニュアンスを表現できる構造であることは、必要な要素と考えているが、細かいニュアンスと心の思いが繋がる響きに出会うにはある程度の忍耐と集中力が必要になるだろう。

 自分自身の心の内奥に触れ、その実質的な要素を知ることは、自己以外の様々な存在の認識の土台となるだろう。だが、この部分を深く捉えながら歩むことは、容易ではないだろう。自分自身の内奥には、必ずしも好ましく望ましい要素だけがあるわけではない。
時には厄介で、人生の土台を全面的に築き直す必要に直面する可能性もあるからだ。

 それを望ましいこと、自分自身に向き合う絶好の機会と考えるか、それとなく回避し現状を保持することを願うのか。そんな分岐点を示唆するとも言えるだろう。さて、ここからどこに向かうのか。ラブフルートは、そんな密かな問いかけ、心の歩みを促す笛とも言えそうだ。

 ラブフルートに息を注ぐとき、自分の内奥が浮かび上がる。それは優れた人格との出会いを凌ぐような直接的で知恵深い木の人との触れ合いの時間とも言えるだろう。

 木の人との触れ合いは自らの呼吸、いのちそのものとの触れ合いの瞬間でもある。だからこそ、息と心の繊細さを表現しうる笛であるかどうかは大切だと感じている。それは同時に僕自身の価値観や認識の実質と直結しているのだと思う。ラブフルートは作り手としての自分自身にも静かに深い語りかけを続けているように思う。
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2015/3/23

風の通り道・空想日記  ラブフルート

流れる息の状態がラブフルートの音色の重要な要素であること。この要素に関してどれだけ注意深く向き合っているだろうか。自分の取り組みに関する新たなスタンスを模索するために、これまでの流れを確認してみようと思う。

自分に許される範囲で、歌口からの息の流れ方や構造を手探りしてきた。それは奏者の身体感覚と内面への影響を注意深く観察し考察する地道な作業の繰り返し。

ラブフルート上部のスペースから下部の管を橋渡しする僅かな隙間。それは音の響き、ニュアンスに大きく影響する。今は幅6.2mm、厚み0.8mmを基本にして製作を続けている。幅が広すぎるとブレスを強めにする必要がある。狭すぎると抵抗感が気になる。厚みも1mmまで厚くすると繊細なイントネーションが難しくなる。薄くすると音量が乏しくなる。

この部分には、生まれてくる音への影響が大きい。基本的に真鍮のスペーサーを取り入れているのだが、ここに至るプロセスをある程度書き留めておく。初めて出会ったラブフルートではなめして蝋で固めた皮が使われていた。ナチュラル志向からの選択と思われるのだが、水分を含むと膨張し音への影響が大きくなる。さらに再三の使用で劣化し部品として安定した入手が必要となるのだが、その対応が十分とは言えない。

おそらく駄目になったら自分で工夫して使うという考えが根元にあるのだと思う。それはアメリカの工房を訪ねて感じた。実際の製作方法やチューニングなども、自分で工夫したらどうだという感じだった。自分なりに思考錯誤して見つけたものを安易に教えるつもりはないとも言われた。

これは僕にとって望ましいことだった。もし、安易に教えてもらえたなら、その流れを模倣する作業を継続するだけでここまで来ていたかもしれない。この点に関しては、別の機会に書いてみようと思う。

先の構造に関して、つまり真鍮のスペーサーを取り入れてる前に取り組んだ事がある。風の流れを橋渡しする方法には、大きく3種類の方法がある。フルート本体を加工するスタイル。バードと呼ばれる部品を加工するスタイル。そしてバードと本体の間にスペーサーを挟み込むスタイル。

どれも試してながら、それぞれの特徴を生かして製作している。フルート本体を加工するスタイルは、本体の劣化や加工のロス、音のニュアンスの変化が乏しく単調な響きになることを考えるとやや気になる点がある。

バードを加工するスタイルは、仮にバードの劣化が起こっても、部品として新たに作ることが出来る利点がある。ただし、それまでの音のニュアンスを再現するのは難しい。このスタイルも音のニュアンスの幅は乏しく、単調な響きになる傾向がある。

スペーサーを挟み込むスタイルもメンテナンスを怠れば劣化が起こりうるけれど、本体やバードへのダメージは少ない。真鍮板は簡単な手入れをしていれば十分長持ちする。

ポイントはスペーサーを挟み込むスタイルは、ポジショニングが安定しないという特徴がある。これを扱いにくいと考えるか、だからこそ奥深い響きを楽しめると考えるか。この点は、僕自身初めて吹き始めた時苦心したので、かなり選択は難しかった。

簡単に音が出る万人向けのものを製作するのか、やや戸惑うけれど、結果的に自分独特のニュアンスで響く音に出会うのか。投げ出すのか根気よく続けて自分特有の響きと繋がるのか。結局リスクは有るけれど、結果的な充足感と個性ある響きに至るプロセスを大切にしようという選択をした。

スペーサーとバードと自分の呼吸との微細なニュアンスの違いを感じ、吹けば鳴る、音が出ていればいいというスタンスからゆっくり変化していただけると楽しいだろう。その時は、僕が作らせていただいたフルートが、それを手にして息を注ぎ込むその人の心と繋がる響きに出会えそうだ。

風の通り道の微細な調整は、音そのもの、響きそのものの原点になる。繊細な心の動きに可能な限り寄り添い、敏感に捉えて表現できる笛。

生まれてきた響きに触れて、自分自身が驚き、気付き、目覚め、涙が溢れる。そんな密やかな瞬間に触れる方がひとりでもおられれば幸いです。

昨夜も、今の作り方に見落としや思い込みはないか、新たな視点に立つ試行錯誤を楽しんでいました。かなり狭い部分への取り組みに関する書き込みになりました。

今の所継承者がいないので、いつかこの日記が誰かの目に止まり、新たなラブフルートが生まれるかもしれない…空想日記でした。

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2015/2/15

ラブフルートを作る旅・少し振り返り  ラブフルート

ラブフルートを作ること。その歩みは、試行錯誤の連続。課題は幾つもある。

それなりの形を作る事は、さして難しくはないし、少し器用な人ならば簡単に形作ることができるだろう。

構造は単純で、音が出るようになるのも、少し集中すればさして難しくはない。音階を作る事も、ちょっとした手順と根気があれば何とかなるだろう。

では、何故試行錯誤を繰り返すのか。ひとつは、呼吸と響きの関係。それは繊細で緻密な領域です。フルートの形状や音色が手にする人の心にも身体にも繋がっている。

笛を作って吹く。それは単純な事であり、誰でもそれを望めば可能だ。必要ならば、インディアンフルートキット販売のサイトに行くこともできるだろう。

ただ、吹いている時その人の身体や心にどんな影響を与えるかを考えると、闇雲にこれをどうぞと手渡すことが出来なくなる。或いは、こんな風に作ればいいとも言いにくくなる。

歌口の形状が身体にどんな状態を起こすのか。吹き込む穴の形状が身体と吹く人の意識にどんな状態を生み出すのか。

ラブフルートの構造がもたらすものが何なのか。それを模索しながら、歌口からのスペースを探り、内径と全長、樹種が持つ特性と響きの関係を何度となく捉え直す。

同じ樹種であっても、形成されている細胞の状態で特有の響きが生まれる。本体の形状がもたらす響きの違いを感じ取り、個々の木にとって望ましいポイントがどこにあるのかを手探りする。微細な振動を感じながら、微妙に削ったり形状を変えていく。形を作るのではなく、響を生み出すこと。

個々人の身体や心の軌跡を真摯に受け止めようとすれば、音楽教育の延長線で似たようなフルートを量産する気にはなれない。個々の人間に類似性の高い物を与えて、用意された楽曲を提供し、模倣と優劣の評価。

こういうアプローチが個々人の自己認識や他者の認識の土台となり、自覚の有無にかかわらず現実を生み出していく。勿論、こういうスタンスにも良い点はあるし、上手く消化して行くことも出来るだろう。ただ、あまりにも偏り過ぎな気がしている。

インディアンフルートという、比較的認知度の少ない楽器が、好奇心を刺激し始め、ある種の流行りになるだろうことは製作を始めた当初から予想していた。だからこそ、敢えてラブフルートという呼称を使い続けて来たとも云える。愛という言葉の重みを感じ続けている。

それは単に類似したインディアンフルートの拡散ではなく、精神的基盤をしっかりと受け継ぎ、それに相応しい取り組み方をする必要を感じての事だ。

ラブフルートという呼称を単なる求愛に使われたので…という説明で終わらせている事が多いようだが、求愛がもたらす深意を、恋愛に置き換えて終わるのは残念な気がする。

人が人を愛する。僕のフルート作りは、それと真摯に向き合うひとつの選択なのだと思う。その土台を探るために、長さも形状も構造も、画一的ではないものを手掛け試行錯誤を続けて来た。

お会いできた方に関していえば、その呼吸の状態、持っておられるエネルギーを感じながら、これまでの歩みと、これからの歩みを感じながら作り始める。

結果的になかなか手が付けられないものと、比較的速やかに手を付け始めるものがある。お一人のために、数本手掛けて、ゆっくりと絞り込んでいくことも珍しくない。

バードもしくはトーテムと呼ばれる小さな部品は、傾斜や高さ、形状によって全く異なる風を生み出す。一本のフルートの状態や樹種にとってどんな形状が、どんな風や響きを生み出すのかを感じ取るために、100種類ほどの試作したバードを付け替えてみたり、時には新たなものを作る。

それは単なる機能だけではなく、色彩やデザインも考慮し、フルート全体のイメージを生み出していく。デザインは当然のように内面と繋がっていく。

なぜ、素朴な一本のフルート作りに試行錯誤が繰り返されるのか。その一端を書き綴ってみた。その土台には、自己認識を研ぎ澄ませていく密かな時間、出会う方々との誠実な心のやりとりがある。

木製の素朴な縦笛が、単なる好奇心や趣味の世界から、より豊かで深遠な自己洞察の道に誘う密かな知恵。人生の旅路の杖としてお渡しし、お一人お一人から生まれる響きを楽しみたいと思っている。声を掛けていただき、作らせて頂けることを感謝しながらの旅はどれくらい残されているのだろう。

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2015/1/17

実践を支えるもの  雑感

新年 すでに17日目。神戸の震災に強烈な衝撃を受けてから20年になるという。
新年を迎えるたびに加速度的に時間が流れ去る感覚が始まる。昨年12月は東北訪問が急遽決まり、準備と現地の活動で半月。戻ってからの予期しない体調不良で半月の間、寝たり起きたり。約束事を済ませると、布団に伏せる。その繰り返しが続いた。

まったく工房に入れない状況。完璧な誤算で終わった年末。仕上げを終えてお渡しする筈のラブフルートは全く手がつけられず残念な年末になってしまった。

この体験は貴重。製作作業に伴う肉体的負担が、確実に大きくなり、リタイアの可能性を密かに感じ始めている時期。健康体であることが土台であると改めて確認。

食事など、それなりに留意して来たつもりだが不覚にも崩れた…。嬉しくはないが、新しい一年も何が待ち受けているか分からない。不測の事態を念頭に行動する必要を痛感する。ほんの少し身体を横にしたつもりでも、そのまま長引き最後にいたる可能性もある。

独り暮らしならば当然考えておかなければならないことがある。今年は本気で準備を始める年になりそうだ。

これまでは災害など緊急事態に適応することに集中してライフスタイルを調整してきたが、自分自身の健康状態に緊急事態のこともある程度考えておかなければならないと感じている。

自分が生きているそのすべての営みは身体を持ち動ける事。その土台があってこそだろう。その土台を大切にし、具体的に実践しているだろうか。

食に関してはそれなりに意識してきたつもりだが、肉体を支えるための時間はどうかと言えば、いささか問題がある。何度か地元の体育館で身体を動かしたりしたものの、長続きしない…。

鼓動と呼吸の大切さ、ラブフルートを吹くことに関しては地道にお伝えして来たのだが、生きる土台となる身体に関して自分はどう生きて来ただろう。肉体的ハンディがあることで言い訳じみた生き方を続けてきたのではないだろうか…。

自分自身の課題を知り、具体的に実践する生き方。その土台は、しっかりと現状を知る事だろう。明らかに、ときおり気にしては見るものの、向き合い実践できていない。

やや遅すぎるかとは思うが、どうやら回避して来た課題に具体的に取り組む年になりそうだ。ラブフルートを手元に置きながら、なかなか具体的に関わることができない方々に、何か声を掛ける前に自分自身の価値観に沿った生き方を実践するのが先のようだ。

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