2016/4/1

立ち位置を確かめて  ラブフルート

気が付けば、昨年の10月からブログの更新が出来ていなかった。

ほぼ半年の時間が過ぎ、その間に様々なことがあり、その都度思う事もありながら、SNSへの手短な書き込みで済ませてきた。

1日の中で書き物が出来る時間は限られている。一度文字化してしまったことを、あえてさらに書き直すには、十分な気力が必要になる。

自己処理的な意味や活動の告知などでその時なりに投稿するスタイル。それは、次々と流れ去り、毎日素通りしていく新聞のようだ。その場のリアクションを期待する行為とも言える。

数多く発信すれば、いつもの事として処理され、投稿内容を十分に読みながら考える対象とはならないだろう。伝達媒体を内容に合わせて選択する必要がある。

いつでも必要な時に読み返し、ゆっくりと読み進める。それは、書物に勝るものは無い。だが、その中間的な役割としてはブログのほうがいいだろうと思いながら、だとしたら何を書くかと考えているうちに時間が流れ去った。

何故、こんな事を書くのか。簡単な理由がある。
それは、ラブフルートを奏でる事と繋がるな〜と感じて来いるからだ。次々とめくるめくように、或いは、強いメッセージを込めて…。さらには、あちらこちらで演奏する。それは、SNSの投稿に似ているなと…。

味わい、聴き返し、全身に染み込ませるようなプロセスとは違う音楽。次々と消化する作業のような音楽。消費経済のアイテムのひとつでもある音楽は、飲食やゲームの類と同類なのかもしれない。

流れに乗っている時は、それなりに楽しいのだけれど、ふと立ち止まると心の中にポッカリ空洞が出来ていることに気付くかもしれない。自分は何を求めているのか、何処に向かっているのか、そういう自己存在の根源への問い掛けは生涯続くだろう。

言い換えれば、人は何処で何をどうやって過ごしたとしても、根源的なことに直面するだろうし、まるで、全ての出来事が、結局その根源に向かっているようにも思える。

僕の中では、ラブフルートを奏で、或いはラブフルートを製作することは、根源的な事との繋がりに直結している。製作本数が増え、ラブフルートが広く知られるようになりますようにという発想はない。製作を続けることは変わらないが、中心軸は別の所にある。

もし、拡散し誰の手にも伝わる事が本当に大切な事ならば、別の手段があるだろうし、そこにエネルギーを注ぐ事になるだろう。結果、僕自身はラブフルートメーカーの人間という事になる。合理的で一般の皆さんが気軽に手に入れ、あの曲この曲を演奏する。こうなると、どんどん中心軸からずれてしまうだろう。時代には乗ろうとして、大切な事を失いかねない。

こんなことを考えている僕は、時代に乗り切れず、密かにショボショボと笛作りを続ける事になるだろう。随分前から予見していた事だが、実際、アメリカからのフルートが大量に流れ込み、インディアンフルート教室も類も始まっている。こうしたアメリカ寄りの流れは、フルートに限った事では無い。あらゆるジャンルで、北米や北欧のセミナーが流れ込んでくる。インディアンが大切にしてきた本質的な事はともかく、まずフルートがあり、吹き始めるという流れ。これはどうにも止められないものになっていくだろう。

僕はその良し悪しを云々しようと思っているわけでは無い。ちゃんと自分がいて、それが何なのかしっかりと見極める視点、広い視野が必要だろうなと思っているだけだ。

様々な場所で活発に演奏活動をし、イメージを広げるという発想もない。勿論、何もしないという事ではないし、それなりに希望が出て来れば動くことにはなるが、積極的に宣伝しラブフルートが祭り上げられるような事にはらない様にと思っている。

日本ではまだまだ演奏家の類は少ないけれど、アメリカのサイトに行けば、有り余るほどのフルート製作者や演奏家がいる。僕の手持ちのCDだけでも60枚ほどあるのだが、演奏のスタイルは実に様々だ。

僕自身には、もともと無いのだけれど、それらしい謳い文句やプロフィールなども邪魔になると感じている。自分という存在が消え去って、木々の響きだけが人の心に届けばいいと心底思っている。風の流れ、雲や光、囀る小鳥たちには到底及ばないし、1羽の小鳥は自分の名前を誇示などしない。

あれこれ曰く付きの曲とか、あの曲、あの歌といった類の焼き直しの様なメロディーを再現する事にも、殆ど心を惹かれない。それはそれで十分に素晴らしいし、否定しているわけでは無いし、そこでも自分を知る事は出来ると思う。ただ、自分には模倣して演じる音楽に時間を費やす余裕が無いのだ。

今そこで生きている人の心と樹の響きが繋がって生まれてくる瞬間の音色、音の移ろい。或いは、奏でられた響きと、耳を傾け、心を寄せる人たちと共有する響きの瞬間。

それが、いまここに生きているという強い感覚を与えてくれるように思っている。こうした考えがあって、あまり広がらない演奏活動とあまり売れないラブフルート製作を続けている。既成の価値観に繋がり、その音を基準に生み出されるラブフルートの製作は続けて行くのだけれど、本当にやりたい事は少し違っている。

このように書くと、彼はもう普通のラブフルートを作っていない、作らないなんて言う話にもなりかねない。だから、誤解を回避して何も書かない方が賢明かもしれない。

当然、基準的な音程の中にも、当然素晴らしい世界があり、美しさがあると感じているし、それなりに作り続けるつもりだ。ただ、大きな流れの中で、音の世界と人の心に必要なこととのバランスを取り続ける必要があるかと思っている。そのバランスのためのひとつの試みとして、クローズドフルートやオリジナル音階のラブフルートを製作しているつもりなのだが…。

僕が何をどんな風に演奏するか、或いは言葉にするか、そんな事以上に、樹々は深くて多様で美しい響きを持っている。それこそを分かち合いたいと思っている。自分が消滅し、木の響きそのものが浮かび上がる。そんなことをふわふわっと考えている。

というわけで、SNSで書くと誤解を招きかねない事を、ブログではどうなって行くのかなあ〜と思いつつ、書いてみた。

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