私の指導スタイルには、一定の傾向があります。それは、本質を見抜いて解くことに徹し、技巧は結果的に自然と再現できるようになる、という意識で指導していることです。つまり技術の供与は結果でしかない、ということです。
そのため、あまり”素人”受けしない傾向があるのですが、これには相応の理由があります。
@情報量を抑え、頭に『あそび』を作る
技巧的な解法・手法を頭に格納する量が増えると、当然ながらその分だけ扱う情報量が増えるため、より多くのエネルギーを費やさなければならなくなります。
技巧が問題に即した形で一時的に複雑になる分には問題ないとは思いますが、フレーム化してしまうと百害あって一利なしの状況に陥ってしまう、ということです。
A思想的素養を培う
数学に関しては、本質を理解する、ということに徹しています。
一例を挙げるならば、
・カージオイドの性質を5つ程度頭にイメージすることが出来るか
・二次元の正射影ベクトルを学んだ後に、球面の反射の問題を出題されたとき、三次元の正射影ベクトルを考えることで、その経路を表すベクトルを求めることが出来るかどうか
・係数部分と変数部分の一方がパラメータとして変化するとき、他方の変化を考える場合、実は背景にはファクシミリの原理があるという意味では全く同じ問題である、ということが見抜けるか
などがあります。ちなみにこれらはいずれも早慶理工を安定圏内で抜けたいのあるならば解けて良い難易度の問題です。
また技巧的な解き方を好む大数を利用することは多々ありますが、それも片っ端から丸々援用するということはありえません。
@と重複することですが、本質が分かっていれば、それを基にして技巧的な答案を作ることはそれほど難しいことではありません。
Vがその最たる例でしょう。Vの計算は一般的に言って派手になる傾向がありますが、一旦方針が見えて式が立ってしまえば、後は一直線になることが殆どです。
そういうわけで、私はなるべく一通りにしか解釈し得ないような伝え方はしないようにと心がけているつもりですが、それ故に講義形式で一方的に喋るとこの意図が(程度の差はあれ)破綻してしまうという矛盾を抱えています。
同時に余りに多くの人数を一度に相手にしようとしてもやはり破綻してしまうわけです。
勿論別解等の形で書き下すことも出来るでしょうが、学生が能動的に手を動かす余地を与え、例えば論証問題について一般化する機会を与える、という観点から見ても、片っ端から明示しすぎないこともまた大切なことだと考えています。
当然そのプロセスには、学生の思考が走り出すのを『待つ』というものも含まれています。学生の出方を見る時間が絶対に必要なので、その分その学生をよく知ることが必要で、従ってより長い時間と労力を割かねばならなくなります。
重装備をするのではなく、なるべく着想の時点でフットワークの軽い思考をすることでテンポよく切り崩す。そのために必要な『手法』というよりは、『思想的素養』を培う、という言い方が出来るかと思います。
そしてそれは短期間で出来るようになるものではないということは、繰り返しこのブログの場でもお伝えしているとおりです。
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