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本日の一枚絵

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天才・・・!
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投稿者:c

copymemo2

姉は血を吐く、妹(いもと)は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、 地獄くらやみ花も無き。
鞭(むち)で叩くはトミノの姉か、 鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
叩けや叩きやれ叩かずとても、 無間(むげん)地獄はひとつみち。
暗い地獄へ案内(あない)をたのむ、 金の羊に、鶯に。
皮の嚢(ふくろ)にやいくらほど入れよ、 無間地獄の旅支度。
春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、 暗い地獄谷七曲り。
籠にや鶯、車にや羊、 可愛いトミノの眼にや涙。
啼けよ、鶯、林の雨に 妹恋しと声かぎり。
啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、 狐牡丹の花がさく。
地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。
地獄ござらばもて来てたもれ、 針の御山(おやま)の留針(とめばり)を。
赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。


寺山修司『田園に死す』で使われていましたね。

音読したら死ぬと言われている「トミノの地獄」。定番

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  └、     ´ : : : : 、ノ
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    |  \    ̄ ̄`ソ    
    |    `ー--‐i'´
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投稿者:c

copymemo1

おとといこんな事がありました。
いつも使用している駅のタクシー乗り場に一人の男性が立っていた、私もタクシーに乗りたかったので彼の後ろに並んだ友人と電話をしていたのでちょっと距離を開けて並んでいた。タクシーが何故か私の目の前に止まりドアを開けた、携帯で話しをしながらチラリと前の男性を見たが彼はタクシーに乗ろうとしないし、ぼーっと遠くを見ている様だった。私が電話越しにとても急いでいると話していたのが聞こえ彼が譲ってくれているのかな?と思った私は電話を切り、前の男性に軽く会釈をしてタクシーに乗った。すると男性は大きく目を開け「あなた私が見えるんですか!?」と叫んだ、ポカンとしていると彼は駆け寄って来た、しかしタクシーのドアは閉まりトロトロと進み出した「見えるんですね!?まって下さい!!僕はどうすればいいんでしょうか?3年もこのままなんです」と彼は走りながらタクシーの窓を叩きながら叫んでいたがタクシーはスピードを上げあっという間に彼は見えなくなった。このタクシーの運転手はもちろん周りの人達はあんなに大声で叫んでいた彼に全くの無反応、あの男性がただの変質者だとは思えません。

私は今まで幽霊なんて見たこともなかったのでその時は本当にポカンとなりボーっと
ドラマの様にタクシーを追いかけている男性を見ていましたが、彼が見えなくなり
ハッと我に返り運転手さんに「今の人何だったんですかね?」と聞いて、「はい?どうかされました?」と言われて初めて怖くなりました。これからまたその駅に行かなければなりません、すごく怖いんですけどばったり会ったら
どうすればいいですかね?
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投稿者:c

『ボーン・アルティメイタム』

毎月1日は映画千円なりというわけでジェイソン・ボーンシリーズの完結作、『ボーン・アルティメイタム』を見てきたよ。


この映画、見終わった後知らず知らずのうちに観客は早足になって人ごみの中を歩きたくなります。ほんとに。

というのもマット・デイモン演ずるジェイソン・ボーンのびっこひいたような、だけど足早な独特の歩き方があまりにも魅力的なので、自然と足早に行動したくなる訳です。それはどういうことかというと、ボーンが体験する時間の流れを観客が取り込みたくなる、とでもいう魅力かな、と。

映画は一つ一つの事象が、カットの手法を通じて流れる糸のようにスムーズに紡がれて進行していくワケですが、首の皮一枚残して己を守りつつ目的を遂げようとする主人公の無駄の無い素早い動作は、あまりに人間離れしているが故に通常の時間感覚を超え、独特のスピード感を持つ。その超人的な凄さ故に所謂ヒーロー映画ものと混同されてしまいそう。だけどこの映画のキモは主人公が実は自分の弱さから徹底的に逃げ出そうとした帰結として人間離れした強さを発揮しているところだと感じる。

いってみれば役者であったことを忘れた演技者が、己がなぜ演技をやっているかを辿り、時間を遡ることで自らを取り戻そうとするお話だ。そこでは自分と「自分」が切断さてているが故に、そして自分の心が他者によって人為的に埋め込まれている(と感じられる)が故に、彼、ボーンは驚異的な記憶力、行動力を発揮して己が決意に基ずき脚を急く。

それは極めてアメリカ的だな、と感じる。決意が彼に神を降ろさせ、弱さ故に人間離れした強さを獲得する。だがそもそもを辿れば自分が望むことが何かもわからない、自分の望みだと感じることが自分のモノなのか他人の誘導の結果であるモノかの区別もつかない、自分の輪郭を持たないことに耐えられないという弱さから逃げ出し、自分の主権(スプレマシー)を放棄した「人でなし」な自分にボーンは気付く。「これが人間と言えるのか」。

ラストにて自分を誘導していたのは自分自身であるという痛い事実は、だがその痛み故に彼を自由にする。合理的な振る舞いは、狂信者故に存在する。強迫神経症的なゲームからボーンは身をもって消え、映画は終焉に至る。うん、面白くないワケは無い。そしてもちろん私たちは消えることはできない。
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投稿者:c

童貞万歳ナイト。『童貞をプロデュース』。

■童貞をプロデュース。
http://www.spopro.net/virgin_wildsides/

を見る。そうそう、童貞ってそうなんだよネ、と自らを省りみながら鑑賞。古谷実のマンガを読んでる気分に。

自分のアタマの中で世界がいっぱいになるという「恥ずかしい」感覚は、忘れたいと同時に愛おしい。でもやっぱり童貞臭さは「もういいよ」ってなモンであるし、歴然と気持ち悪いしウザいもんであるな、と確認。否、これはけなしているわけじゃなくて、泥にまみれない限り、自分のなかの「聖なるもの」なんてものは見通せないよね、てな符号なのだと思う。「みんな悩んでおおきくなった!」と。…女の子が見たら、「自分は女でよかた」とか「何でそんなことで迷うねん」と思うのじゃないかしら。。

鑑賞後、松江監督と主演二人のトークイベント。裏話的な話を交えてのグダグダトーク。童貞のビューティフル・ドリームが想像と創造を育む…的話。2の主演の方がこしらえたというドブロクをもらって実に美味しく飲まさせてもらう。最後に松江監督の言葉、「童貞を捨てても、童貞であったときの初心を忘れずに脱ぎ捨てて欲しい」とあった。でも思う。そんなことできるのかなー、と。

実のところいうと、主演二人とそして松江哲明監督にも纏わりつく「童貞臭さ」こそが実は「童貞」の正体なんじゃないか。セックスしたかどうかではなく、「自意識の纏わり」こそがその本懐にあると思う。

それは端的に、「自分に関わる自分に関わる自分に関わる自分に…」と無限後退していく頭でっかちな思想だ。だからそこから抜けるには物事を体験して「感じる」ことでしか抜け出せない。論理的な借り物の言葉を並べ、終わり無い「自分ゲーム」から抜け出せない思考のワナは、あまりにも引っかかりやすいものだ。

その意味でいうと、自身も童貞みたいなモンだなー、と思った。観客もそんなカンジの方が多かったように感じた。思うは、アンチ(反)からポスト(脱)へ。オナニー化する、閉じた現実の肯定・否定を超えていかに現実とセックス(感じる)するかが焦点だ。童貞であることが恥ずかしくない時代だからこそ、自分から抜け出る気概とプライドが肝要になる。そんな自分語りを一身に引き受ける松江監督の作品『セキ☆ララ』はアイデンティティとはなにか、を基調に置いたAVだ。

『セキ☆ララ』はとても着眼点が良い作品だった。在日韓国人というナショナルな境界とともに、AVという、「非日常」の境界に立つ人々を捉える視点から、「自分自身を在り足らしめるもの」=アイデンティティを鑑みる。

人々を脅かしかねない関係である性と政。そこに一番敏感に感応しながらも見えてくるものは「自ら」から這い出てくる様々なネットワークであり、つながりだった。選択の有無に関わらず纏わりつくこれらのラインを辿ることで「誰でもありえる、しかし誰にもありえない自分」が映し出される。

「あなたのアイデンティティはなんですか?」と問い尋ねる松江監督の目線はそうしたナイーブにも真摯な骨が宿る。無論わかるのはアイデンティティを言葉で綴ることはできないということ。むしろそうした言葉を積み重ね、構築する輪郭を超えた、外側にある「なにか」を感じとる私としてのアイデンティティに着目する。よってセックスシーンはなんかの儀式のように映った。
まぁエクスタシーは忘我、脱自って意味ですもんね。

とまあそんなワケで久しくオールナイトで映画を見たのでありました。…しかし劇場でみんなとAV見る機会ってほとんど無いよね。深夜から朝6時までアンアン言ってるのを聞く、深い、濃い夜でございました。帰ったら疲れがドッとでたよ…。でもやっぱり、骨のある、匂いある映画は好きだ。。

あと童貞1の方の主役の方が歌う「穴奴隷」は早見純の漫画を彷彿させますな…。

♪君を、穴奴隷にしたい〜

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タグ: 松江哲明
投稿者:c

緻密な怒り_若松ノモトの欠如_エウアンゲリオン(福音)



↑Rebuild of Evangelion - Beautiful World

前ははしゃぎ過ぎた感があるため冷静に語ってみよう。

■「ヱヴァンゲリヲン新劇場版公開記念 深夜の緊急対談」

竹熊けんたろう×宮台さん
tbsラジオ。ポドキャス配信中だそうです。エヴァンゲリオンの流行った95年という時代の主な分析をやってます。必聴。
http://www.tbsradio.jp/life/spinoff/

聞いてて思うは、「全ては何かのパロディで」しかないという含意を乗り越えて行くのはやっぱり製作者の魂の入れ様なのだ、と。でなければエヴァンゲリオン(直訳で「福音」の意)が起動することも無かったのと同じく。

聞いてて意外な人物の名が聞こえた。グランギニョルのアメヤさんの名である。オウム事件の時に筆をへし折った劇作家が多数いた_という。現実にこんな「おもしろい」事態が生じては、最早表現を舞台に置く根源が無い、と。かくしてその後「時代的閉塞感」が蔓延(全面的オタク化)したわけだけど、その危機感や焦りが頂点、レッドゾーンに達したのが90年代後半期の諸端であり、その空気にシンクロしたのが『エヴァンゲリオン』だったのだ_と。

まぁ僕は当時11歳とかで全然わかって無かったのですが、後にエヴァを見た後の妙なしっくり感はここにあるように思えた。

というか自身が中学生とかの時は、「エヴァ」に群がる者者_村上龍、臨床心理学、太宰治に取り分け反応する方々_のナイーブさや、自らを繊細と規定する「鈍感さ」が目立ってなんとなく忌避していた感がある。だからちゃんとエヴァを見たのは大学入ってからでございました。

だからか、見てしっくりとは来るし、面白いのだけど、シンジ君の痛さばかりが目立って、ハマリはしなかった。時代の文脈が変わるとここまで需要形態も変わるのか_と思って見てました。十代でサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」を読まなかった、もとい「読めなかった」者の性かもしれません。

正直疑問に思っていたのは「なんでそんなに自分の『不幸』な境遇に酔えるんだ??」という率直な想いでした。

そんなわけで承認の供給不足のみに固定された文脈からの『エヴァンゲリオン』消費を見るにつれて、なんかなぁ、と思っていたのでした。

■人の輝き

『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』で最も顕著なのが、そうしたエヴァに付着した主にシンジ君の内面的「空気」が極力排され、変わりにやたらと「血の気が多い」ことでありました。(使徒が死ぬシーン)

なんだかそこに凄い「緻密な怒り」を感じ、これに震えるほど感染したのでした。「志」や「魂」と言い換えてもいいかもしれません。「とにかくここから脱する!」とする気概というか。

思うは惹かれたるこうした「気概」「勢い」、というのがどこから生じるのか、という点でありました。

思い出すのは園子温が若松孝二監督にインタビューしている記事(トーキング・ロフトvol.1)での園監督の談語コメントです。
ピンク映画を撮り続けた若松孝二の仕事・成果・凄さを説明した上でこのように語っております。

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―(若松監督の仕事が)60年代という時代の奇跡だろうか。そういう人もいる。当時と今では、違う。しかしこれは本当に、ただ単に状況の違いだと一言ではいえまい。若松監督のお話を聞いていると、僕には時代なんか関係ない気がしてしょうがなかった。

強力「若松ノモト」が欠けているのだ。どんな強壮剤、どんなドラッグをもってしても敵わないこのエキスが僕らには欠けているのだ。この凝縮エキスを飲むと、まず並外れた瞬発力が手に入る。そしてパワーは全開、修羅場が楽しく見えてきて、地雷の平原を軽々と走り抜けることだってできる。このエキスを体内に100%で染み込ませた肉体の持ち主ならば、60年代だろうが90年代だろうが、修羅場を明るく過ごせるに違いない_(中略)

だから僕らもこの強力「若松ノモト」を一滴だけ(何滴もはいけない。やわな身体には危険すぎる)口に含んで、どんな状況でも笑って軽快に地雷を飛び越えて走りぬけようではないか、時代のせいばかりにしてはいけないらしい。―

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庵野監督はこの意においてまさにレッドゾーン、「強力若松ノモト」を飲み干して走り抜ける気概、「志」を僕達に示したように思う。だから僕は「背中を押された」「勇気を与えられた」気がして、見た後は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。意気に感じれる背中の、その存在が、とかく眩しく、そして嬉しい、と。

■シンジ君の微妙な性格の変化

あと今回の映画が結構好感なのがシンジ君の微妙な性格の変化だった。

旧世紀版では自分の境遇における承認の無さにナイーブに反応し、「僕にやさしくしてよ!」と叫んでいたシンジ君。だけどその状況の変更不可能性のため、黙って口をつぐむだけだったシンジ君。

だが今回の作品では少々文脈が異なる。
「ミサトさんたちは(見てて指示するだけで)ズルイですよっ!」とちゃんと反抗したりする意志、そしてなにより大きな変化は「そもそも何故(エヴァに乗るのが)自分なのか」と問うところ。

「自分が何故不幸なのかという問いかけ」→「そもそも自分が何故そんな不幸な状況にいざる得ないか、という、世界の不条理に対する問いかけ」とシンジ君の問いかけが変化している。

これは似ているようでありながら実のところ全く違う。庵野監督がシンジ君に仮託して表現を帯びているとするのなら、自分の不幸に耽溺する姿勢を取り止め、シンジ君が_半ば庵野監督
が_成長した痕跡を見出すことができる。

これは今後の続編で今の時代に庵野監督が有効なメッセージを差し出す可能性の布石のように思えるものだった。

というわけで今後に期待。エヴァンゲリオンの語源通りの「福音」が訪れることを期待して、と。

■大学院テスト前ってことで

社会学勉強中。最近は喫茶店に十時間くらい篭ってお勉強なのですよん、と。
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投稿者:c

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 庵野秀明、宣戦布告


↑Rebuild of Evangelion 2nd movie trailer/ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 第2弾予告

たった今、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を見て帰ってきました。そういえば満員御礼の映画館は『マトリックス』以来だったことを思い出しました。以下はネタバレします。

結論からいうと



「最高ッッッ!!!!!!!!」

久しく見た後もう嬉しくて嬉しくてたまらなくなりました。

見る前はZガンダムの二の舞になるのではないか…と危惧しておりました。。。富野監督のように「自意識の雨のように言葉が降る」病の渦中のごとくなるのではないか、、と。

というのも何気にアニメのリメイクという手法は消費尽くされておりまして、ドラマに映画にアニメに_と留まるところを知らず、

おそらく今年くらいでついに再消費するネタが枯渇するのではないか…??と。そして実写に移った庵野監督もそれに加担していました。

あるは同人的内輪の乱立的状況。島宇宙化した趣味人の集い。

そんな時にエヴァまでも…。
またあの「神経症的空気」を…??と。

ついに再消費も90年代に手がかかった。。あとは内輪受けするサードインパクト無き「終わりなき日常」の世紀、か、と。

思えばエヴァが流行って以降、日本では精神病的、自閉症的な登場人物が自意識の克服、セカイを救う類のオハナシが蔓延していました。同時にオタクが全面化したのもこれに類するモノでした。同時期ネット文化が盛期を迎えた_生活世界のシステム化を遂げたのもそうでしょう。

つまりそれは「閉じ」ることでの安息_表現がその表現性を失い、内輪における表出的戯れと化すことを意味していました。

同時にこれは現実でのコミュニケーションの期待値、願望値の切り下げにも見て取れました。現実に実りが無い。まともに生きることの「まともさ」が云々できなくなる。。。

かくして中二病は慢性的病と化し、現実と虚構を区分した上で、あえて濃密な虚構にベタにのめり込む_を肯定する輩も沢山出現。一方で現実に期待しない、が故に現実を演技的に再構成しながら街に浮遊する輩も。

性愛等、二極化は際限なく進み、タコツボ的状況は止め処も無く進みました。そこにあるは誰も全体を見通せない内輪の内部ゲームでありました。

『エヴァンゲリオン』はその意味でも間違いなくドンピシャに90年代の「時代と寝」、その空気を作り出しました。その功罪の罪は(そこが庵野監督がオタクに失望したという点でもあるけど)一言で言うと「閉塞感」であったのです。


しかし所信表明にあるよう、庵野総監督、やってくれました。



僕は鑑賞中庵野監督のこんな声が聞こえて来た様に思えたのでございます。


「ヌルい自意識系アニメやら映画やらドラマやら現実やら…、いい加減にしやがれ!全部ぶっ壊してやる!!!」


もうとにかく過剰!過剰!過剰!!
感情移入を排したメタ的視線の編集!
セカイから世界の不条理に向かって叫ぶ碇シンジ!

見てて感じるは脱・オタク、脱・日常を志向する身構え、作画、アニメーション!

「何かを脱する」前兆を予感し身震いが止まりませんでした。

「凄い…!誰かがいつか言わなければならないことをここで言うのか!!」と。



これは是非もう一度見に行こうかと思う次第です。

ちなみに次回作「破」にエヴァンゲリヲン(!)がでるそうです。。おそらく完全に「壊し」にくるでしょう。万雷の拍手で迎えたいと思う次第です。



(小ネタ・ちなみに僕は誕生日が庵野監督と同じです。)


あと

9/2(日)25時40分〜28時00分
社会現象にまで発展したアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のTV版公開から12年。
竹熊健太郎さんと宮台真司さんが新劇場版の紹介と、「エヴァ」現象の分析、作品が
現代に与えた影響などを語り合います。

下記で当日のテーマも募集中。
http://www.tbsradio.jp/life/2007/08/post_24.html
http://www.tbs.co.jp/radio/present/0902_sun.html

参考:たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/10_e5fa.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_6a20.html


だそうですよ。聴こう。
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投稿者:c

恥ずかしき「私」達、その屍を超えて行け

我が盟友はその昔、PCでと或るゲームを起動させた際、ロリロリな声で

「作品中に出てくる人物はみぃんな18歳以上だからね!」

「過激な性的・暴力表現・行為はぜったい・ぜぇ〜たいにマネしちゃダメだよ!」

とのアナウンスが大音量で家族中に聞こえ、「恥で人は死ねる」と悟ったそうです。今でも思い出すと死にたくなるとか。


たまにパッとしたキッカケで思い出したり、夢に出てくるまで恥ずかしい記憶はまるで背後霊のごとく自身をさいなみます。ああ。

その度に「自分はほんとうに恥ずかしい輩だナ…」と、一人ごちたり後悔したりして、それとは無縁そうに生きてる輩を羨ましげに見てる時期が有ったり無かったりするワケですが、これから逃れる術はいかようにか無いものでしょうか。

俗に日本は恥の文化と言われます。
恥は、内輪の視線、つまりは道徳から外れる感覚と、かのルース・ベネディクト女史が看過するワケですが、何が内輪を構成するかによって恥のタテマエも内実も変化するワケで、一概に
指摘できないのが難しいところです。

シモネタ話ないしエロはこれが顕著に顕れるところではないでしょうか。

まずにして共通了解が得られにくい、という一面があります。

誰しもにも性欲はありますが、それを普遍的な語り口で語ろうとしてるにもかかわらず、自分のフィルター、自意識を曝け出す言葉を吐きがちになります。

ヘタに語ると自己本位的なポエムを語るに陥りがちなので、自己防衛的にも個人の性的嗜好はビデオ屋のジャンル分けの如くパッケージ化されたものへの帰属へと収まりがちに語られます。(人妻・ロリ・企画物が好き、等等…)

個人的な嗜好を赤裸々に語ることは自らの実存を開けっ広げに晒す事ともなってしてしまうので(全ての性欲はファンタジーであるから。)、よほどの了解手順を踏まない限りはリスク回避の観点から話されずじまいとなりがちで御座います。よって男ばかり集まってもシモネタ話は最近あんまりされませんナ。

一応、京都の文化では「いけず」が排訴されるしきたりがあります、いけずとは要するに「自らの内面も素直に曝け出せない、作法を踏まえぬ不遜なヘタレ」のことで、お笑いにもこれを排訴する精神が見出されます。

我が家で父母から教育されたところによりますと、関西発祥と言われる?こうしたコミュニケーション作法、オチる、ないしボケてツッこむ、が現在全国化したといえど、元来のモノと違うトコであるのは

「他者をオトして、笑いをとる」のと「自分をオトして笑いをとる」違いであり、

オチ(なければいけない)のとオチ(をとる空気を侘びる)見方の違いであるそうな。

自分をオトす笑いは、他人をオトす笑いよりコミュニケーションの敷居が高く、共通前提の共有がよほどなされてないと、(関係の「濃度」が高くないと)できないもの。相方が「拾ってくれる」まで関係が至るのには時間がかかるものでございます。でもその分、濃密さが増す。

話がオチる空気を侘びる(が故にオチを深くする)のも共通前提となる内輪の空気を嗜むための技巧にすぎず、実は話がオチるオチないはそれほど比重の掛かる問題じゃない。

つまりは前提となる内輪のコミュニケーション濃度の低下、これが大問題。「いけず」の方が数が多くなれば、作法そのものの意味合いが消滅する。

人をイジって笑いをとる時、イジる方の人間はその内面が照らされる事無く「ボケ」、イジられる人間は持ちネタを「オト」す、という役割分担的なコミュニケーションが生じます。それが固定化すると「キャラ」化することとなるワケ、かな。

ただ昔と今で違うのはボケ・ツッコミを支える内輪が単一ではなく複数に跨るが故に、極めて流動性が高く、それに対応するが故に自己を場面場面使い分け、解離的に生きなければしかたなくなるところ。かかるが故に、コミュニケーションの濃度が低いままでも内輪を確保し、コミュニケーションを円滑にするための人格の固定化、「キャラ」化によって相手を見做す作法が一般化する。それはAVのジャンル化とも通底しよう。

その副作用は自分が「キャラ」であっても、自己ではなくなる点。
自分と切り離して人とコミュニケーションできても、自分を表出する場の不在度が高くなり、自己表出願望が内面化し抑鬱感が蔓延する。それは所謂「病んでる」が一般化したのにも見出される。

とまぁ一般論はここまでにして、

僕的にはこうした状況下においては色んな場所で様様な複数の視座を体験しながらも、そこから背骨を見出していく試みを続けるしかないのじゃないかしら、と思う。

つまりは「自分は自意識的なほんとうに恥ずかしい輩」でしかないし、コミットできる全てが大なり小なり自意識の塊的コミュニティでしかないので、この状況を肯定でも否定でもなくなんとなく受け入れ、全うしつつも、思い出したる過去の残影、恥ずかしき屍たちの断末魔を聞きながら超えていくしかないんじゃないか、と。

そしてそれを越えた先にある骨組み、背骨、「倫理」を見出す試みをしたい、と思うのでありました。
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投稿者:c

内へ遡る。『Inland Empire』

http://www.inlandempire.jp/index_yang.html
梅田でD・リンチの『インランド・エンパイア』を観賞する。3時間。

リンチ映画に出てくる役者は皆「役者であること」を役する自覚を自覚する自覚をする私を自覚する…、と無限後退しながらも自身を遡る性格をもってるように思う。今回の新作ではそれがより顕著に思えた。

ハナシはとても単純、「A woman in trouble(女の悩み)」。

女優が新作映画で主役の座を獲得するも、それは曰く付きの呪いの作品であった。。。というお話。

現実か、夢か、虚構か、映画か、幻覚か。観客は判然としない混濁を味わう。「映画内で映画を見る映画」という点で、輻輳される階層的世界観は、その輪郭を提示することなく内に向かって突き進む。

この作品はリンチの集大成の観がある。リンチが何故悪夢的イメージや呪術的イメージに固執するのか。inlamd empire(内陸部)ともあるように、リンチは中へ中へと突き進む。

普段の、何気ない日常、という舞台を支えている闇にリンチは目が放せないのだと思う。その闇を端的に直視するが故に、「日常」で行われる自明なはずの社会の諸関係を「人工的で不自然なモノ」と描いた、初長編映画の奇形胎児『イレイザーヘッド』。非日常に開かれる鍵である「切り裂かれた耳タブ」を拾うことで日常という舞台を知る『ブルーベルベット』。日常が狂気を呼ぶ舞台装置だと主張する『ツインピークス』。自分が「役者で」あることへの不快を顕す『ロスト・ハイウェイ』。女と夢を媒介に、日常舞台からその外へ開かれる福音(女)と絶望(死)を描く『ワイルド・アットハート』、『マルホランドドライブ』。。。

かかる日常、現実を、役者の諸関係から成る舞台として再帰的に読み取り、合理的に集約できないその闇を個人的内面から輻輳的にイメージとして映し出す今回の映画『インランドエンパイア』。観客は、その内面的不合理の帝國に震撼するだろう。

光と影が交互に描写されるこの映画は、私たちの眼球の「うしろがわ」を見つめる試みであると思う。

リンチが瞑想を糧にしてるのも絡むと思うけど、その「うしろがわ」、超越論的闇を「神(アメリカ的宗教心)」に表象させず、映画として表象させ、これを陶酔的に感じえる仕掛けは極めてアミニズム的感受性の私たちとシンクロする。ごちゃごちゃしていて理不尽な世界…。

それはつまり「世界をなだらかに滑る」試みである。「他者」を通じてでしか世界を知りえない私たちが、固着した日常イメージ(神)で世界を知りえることの貧しさから、奇形、闇、女、映画といった鍵を媒介に、むしろ圧倒的世界の豊かさに開かれよ、とする呼びかけである。と私には思えた。

ご覧あれ、と。これはスクリーンでみたほうが良い映画です。


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しかし…劇中のシルバニアファミリーを実写化したが如くのウサギ人間の舞台(↑)…いいなぁ。こーゆー舞台やってみたい。↓

rabbits1


rabbits2
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投稿者:c

地下幻燈劇画 少女椿




丸尾末広の名作、『少女椿』の紙芝居的アニメです。以下は↓からどうぞ。
http://jp.youtube.com/results?search_query=%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%A4%BF&search_type=tag

先日のオールナイト映画『ラザロ』でも思ったことですが、やはり映画とは「御祭り」であり、「儀式(ミサ)」なのだと思います。でかいスクリーン。映画館の薄闇。朧気な観客。なにかが起こりうる予感。見開かれた眼球。

日常の俗の世界からこの闇の中への進入は実に危険に満ちています。何故なら出てきた時、私たちは、もはや入る前の私たちでは無いのですから。。。

しかし私たちは最早この陶酔をモノにすることが出来ません。映画以外のメディアが著しく発達し、お祭りを起こす方々の数も、極めて限定的に成っているからです。

とすれば私たちが上のような動画を拝見する際に心掛けることは創造力と想像力を逞しくする工夫です。この作品は異常な興行形態で異様に催されたと聞きます。その空気、その濃密さを知り、あるいはこれを心に留め、いかようなる表現地盤に向けて自身を動かすかという不断の努力を結実させる眼球を養うこと。眼球の血液を自らに補充することなのだと思うのです。

:参考hp TINAMIX
http://www.tinami.com/x/report/13/page1.html


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投稿者:c

『ラザロ LAZARUS』 弱肉強食は「仕方ない」か。「一度死ね」と私たちに訴える映画『ラザロ』

『ラザロ −LAZARUS−』
http://spiritualmovies.lomo.jp/lazarus.html

三部作映画です。ポレポレ東中野でオールナイト上映見てきました。

■第一部『蒼ざめたる馬』

舞台が京都。新風館をはじめとする「馴染み」ある場所が舞台だと見てる方としてはなんだか変なカンジですね。

「金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になる。それがこの社会のカラクリや」そう呟きながら、無表情で殺人を遂行していくマユミ。

金持ちのボンボンに毒薬を呷らせ、金を巻き上げた上で淡々と殺していく。

「そんな甘いことゆうてるから、世の中いっこも変わらんのじゃ!ボケ!」と、殺人を止めようとする恋人「役」の子に言うセリフが印象的。

見てて思い出したのは赤木智弘『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争』の論。
http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html)コレに対しての応答合戦が繰り広げられた。


論文掲載号の翌々号で「赤木問題」が特集され、何人かの左翼が「戦争になったら真っ先に犠牲になるのは君たちだ。戦争を待望したら自分の首を絞めるよ」と諭す。でも赤木は「ピントがずれている」と言う。なぜ赤木がこう言わざるをえないのかが問題で、そこにヒットしない「正論」を述べても仕方ない。そこにあるのは「日本社会」におけるただならぬ不信感、そして憎悪なのだ。

ただ赤木智弘はこのように言う。
「私を戦争に向かわせないでほしい」、と。

これが消極的な「自由の求め方」ならば、マユミの殺人は「自分で戦争を起こす」積極的な自由の希求だろう。ただならぬ社会に向けられる憎悪、怒りは、社会に内在する無関心の阿保面を粉砕する。そこにあるのは100か0かのゼロサムゲームである「冷たい資本主義」とバトルロワイアルな殺伐した生だ。共に悲惨である。


■第二部『複製の廃墟』

偽札偽造事件を軸とした、マユミ三部作2作目。

「偽札の被害者って、一体誰なんですかね?」と迫るマユミ。
答えられない刑事とのやりとりが惹かれた。

「それは国家だ」と言うが、その「国家」とは誰か。実感が無い。むしろ「国家をかざすことで権益を増大する輩」が具体的か。

ならばむしろマユミらの偽札偽造は「国を掲げることで、私益を肥やしている連中(それを売国奴という)」に反抗する、手段に見えなくも無い。

このことがすんなりと受け入れられるほど、「世の中オカシイ」が常態化している。そう感じた。

■第三部『朝日のあたる家』

何故マユミという「怪物」が誕生したか、を綴る三部。

見てて映画『幸福のスイッチ』を思った。
大店舗規制法が消滅し、商店街のシャッター街化が広がった伊勢の町に、マユミの妹が東京から帰ってくることをキッカケに地獄が起こる。

『幸福のスイッチ』と出だしがとても良く似ている。

東京に憧れを見て集うものの、疲れて田舎の地元に帰ってきた女の話。『幸福〜』では家の家業である電気屋にて地元を過ごすことで、主人公は地元の人々とのふれあいの中で「自分の帰る場所」、プラットホームを意識し、再帰的にこれを護持する姿勢を持ち、再び東京へ向かう「ハッピーエンド」、である。

が、『朝日〜』は「帰るべき場所」の無い現状、シャッター街を描く。

東京から疲れて帰ってきた妹は無意識的に拝金主義の塊となっていた。「帰るべき場所」は大店舗に経済を奪われすでに消滅している。。
「金に、すがるよか、他は、無い。」

妹が姉マユミの会社員の男を誘惑し、金を要求して恐喝する過程で残酷劇が巻き起こる。

「俺は、こんなことで、全てを、失うワケには、いかないんだ
!!」
男も「金にすがるよか他は無い。」
会社員、が取れたら、なんでもないただの人、になる恐怖。

全てをもみ消すために姉妹ごと殺す男。マユミの首は痣が出来るほど締められる。

妹も姉のマユミ殺され、海に沈められる、が、マユミは復活する。キリストに復活させられたラザロのように。その復活に伴う「気付き」は実は恐ろしい。知恵が悪の賜物のように。

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全ては奪い奪われることで成立している。

何の毛ない日常に潜む陰が、それを成り立たせる。
その名を自意識という。男の小さな自意識が、姉妹を殺戮した。その絶望。

この社会は実はそうした自意識の塊で、この日本社会には自意識を超えた「公」、パブリックが存在しない。よってどんな社会的弱者救済処置も恣意的で、実態なんかどうでもよく「弱者を救済する」ことに酔うバカな強者しかいない。よって社会が「弱者」を救うことは無い。むしろそれは「わたしたち」を拘束し、抑圧する。

ならばこれに怒り、これを壊せ。

全ての歴史は階級闘争の歴史である。。。


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マユミは劇中、やたらに台詞で「社会」と「私」を直結させる。簡単に言うと「社会が悪いから」「私は苦しい」。

だがそれだけそれはマユミが「社会」に忸怩たる思いを持つ証左である。
何故こんな
「弱肉強食で、ゼロサムゲームを強いられ」
「かといって帰るべき場所も無く、ゲームから降りれず」
「どこにいても同じ風景、ファスト風土で」
「『私が死んでも代わりはいる』ような取替え可能な私が」
居る様な社会なのか。。。

それは本当に「仕方ない」か?
違だろう。

怒れ、そして壊せ、と。

そう。歴史的に鑑みても、アメリカの要求である大店舗規正法解除に抗う方法はあったハズであるし、地域経済を枯渇させ、文化資源を枯渇させない方法はあったハズである。(それ、米依存脱却をやろうとして田中角栄はロッキード事件で刺された)

忘却の激しい私たちは怒ることも出来ない羊に堕す。先ず「そもそも、なんでだっけ?」を思い起こさねばならない。

私の友人は言う「この状況は仕方ない」、違う、ホントは仕方なくなんてなかった。忸怩たる思いをそこに残す。

しかし私たちの思い、怒りをせいぜい上に述べた赤木氏の表現したが如く消極的にしかなれず、マユミのようにはなれない。何故だろうか。

それは私たちが「死んでいない」からだろう、と思う。生きてること、そのものの自覚が揺さぶらることのない阿保面。だから『ラザロ』は「まず一度死ね」と私たちに訴える。

「そして死んでからもう一度復活せよ、甦れ」、と。


極めて有害な必見に値する映画だと思った。
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投稿者:c
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