存在するだけで空虚(どころか確実に有害)な人間というものが実在するということの不思議(あるいは奇跡?)について若干考察してみたい。人はなぜただただ生きることのみに固執してしまうのだろう? おそらくそれは宿命の為せる業なのだとそう思い込むことにした。人間は生きるに有らずという神々の審判が下されたと仮定してみた場合、どうして人間はその審判に従わないのだろうか? 存在が生の理由を追い越すことなどないからに他ならない。そして人間は理屈抜きで今の生のあり方というものを問わずしてただただ生きることのみに執着せずとも、だって私はもともと生きているのだからそれ以外の理由など何一つとして持たないというところに結局は落ち着くことになるのである。理由のない生こそが生の本質なのだというところに着地するのだ(これが生なのである)。ところでそんな存在というものを可能としているはずの(唯一の裏付けであるはずの)哲学というものがこれらを考察する手助けにすらならないことについて、私は特段に驚きはしない。というのも哲学がなし得る仕事の領域とは詰まる話、生の領域とすべて一致するからなのである。だから哲学が
生の根源的な問いについて何も答えられはしないということは、特に驚くことではないはずなのだからだ。しかし哲学と呼ばれるものがどうしてこの世界において未だにあり続けていられるのかというのは、もちろんこの生に対する疑問とともに問われ続けているのと連動していることは確かなのだ。そのため哲学する人というものが、ひっきりなしに現れ続けているのも確かなのである。そして何時しか哲学というものと自己との救済願望を重ねて見つめ続けていくうちに、どちらか一方を選択せねばならないことに気がつく。ある人はそこで哲学に幻滅しながらも哲学の問いを固執しつつ破滅へと誘われ、またある人は哲学を改変しつつ自己の問いを練成することに励む。どちらがよりよいというのではない。だが、とりあえず留保すべきところがあるというのは一つの救いともなろうから、その点については素直に首肯せねばならないだろう。存在を深くトコトン突き詰めていくと必ず何かの壁にぶち当たる。さて、ここからが私の仕事なのだ、この壁を超えてみせることこそが私の哲学なのだと設定できたものは幸いである。ところがそんなことさへもできない人間というものが世の
中には確実に五万といる。私は途方に暮れている(ウィトゲンシュタイン)の途方とは、壁を設定できたものが抱く感慨なのではなく、そんなものすらできない人間が抱く不正確な感慨なのである。私が生きていることの不思議について、私が理解する唯一の言語(またしてもウィトゲンシュタイン)で表現できるということそれは巨大な恵みであり幸せなことなのだと純粋にそう言えるだろう。しかしそういうのとは無縁な人々抱く生の神秘性とはえてして不満や不安の引き金かもしくは存在に対する些か安っぽい警鐘的な決まりきった文句でしかない。こんなつまらないところに本来的には究極の問いであるはずの意味が堕ちていかなければならないというのは哲学の不幸でもあるのだ。生の肯定をするのに理屈など一つもいらないのだが、生の否定をするのには沢山の理屈というものが必要とされることからも明らかな、問いの堕落なのである。究極的に言えば生を肯定するのに何一つとして必要なものはない。もし仮に今生きていることそのことが悪魔に支配されたものであったとされても、それは生に対する些事でしかないだろう。だがわれわれは生を否定するときにどういうわけ
か知らないが多くのものを求めようとする。それが生への冒涜であることに気付かないまま、我々は一つの生を可能な限りしゃぶり尽くそうということを欲するようになる。