富士山の頂上から見下ろした下界の景色と、平地で見える富士山そのものの景色と、どちらが絶景に見えるのか。どちらも絶景であると言えるだろう。
山を哲学だと例えると、哲学者は哲学に対して二つの態度に別れると思う。登山者と観賞者の二つである。登山者は山の輪郭が見えてきたら、それを征服しようと躍起になって登りたがる。そこから見える景色を手に入れることで、見事に構成された世界の風景を体感したいからだろう。しかし観賞者はそうではない。厚い雲に覆われていた山が、その輪郭を現したとき、山に登ろうとはせずに立ち止まり、そこからその景色を堪能しつくしそうとする。時には記録に残そうとして写真や絵に写そうとするだろう。僕は今まで僕の哲学とは登山であり、登山者であると思っていた。哲学的問題や哲学的議論という道を辿り頂上を目指しているものだと思い込んでいた。しかしどうやらそうではないらしい。僕は徹頭徹尾、観賞者だったのだ。観賞者は実際に山には登らないので、山の持つ険しさを知ることはない。しかし山自体の美しさは知っている。それについては観賞者は登山者に匹敵するし、むしろ上かもしれない。山頂を目指して悪戦苦闘しもがくのも良いだろう。しかしそれをしているうちに、本当に大切なもの、山自体の美しさを忘れはしないだろうか? ただその山の美しさを
、内部の醜さや険しさといった山の本質的なものを知らずとも、ただはっきりとまぶたに焼きつけて、凝視していればよいのではないか? 山頂から見下ろした景色は確かに絶景だし、それは労苦して登ってきた登山者をたいへん満足させ、その労に対してじゅうぶんに報いるものになるかもしれない。だがそれによってその山の景色は、山を登っているがゆえに、見ることはできなくなる。山頂からの絶景を手に入れる代わりに、その山の景色を見失うことになる。
登山者と観賞者、異なる立場から山である哲学に対してのアプローチをして見ると、どちらともに一長一短がある。山頂からの景色と平地から見える山の景色と、どちらの景色が見たいかによってあなたの哲学の景色は変わるだろう。だがどちらにしても、哲学であるのに変わりはない。僕は立ち位置がどこにあろうとも、山は見えるし哲学はできるのだと、そう言いたくなる。哲学とは何も、登山者だけの特権ではないのだ。観賞者であっても構わない。そこから何が見えるのか、それが問題なのである。

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