僕が最近になって哲学について感じることは、僕が哲学なんてものに何の予備知識を持たずに触れた原初の頃の感動や驚きが、今となっては、余計な予備知識などを得たことによって、その感動が失われつつあるのではないかという怖れなのです。音楽を例にしますと、最初は楽器の音を鳴らすことだけで満足していたのが、それだけでは物足りなくなり、リストやパガニーニのような超絶技巧的な曲を演奏することを習得して、縦横無尽に楽器を鳴らせてスケール演奏できるようになったことによって、最初の頃のがむしゃらでひたむきな音楽への姿勢が無くなってしまったのではないかと感じるのです。そのことで僕の中の哲学する内在的動機が失われ、ただ出来合いの哲学問題集を解くことに専心するようにはなりたくない、というのが僕の本音です。哲学は、よく他の哲学者たちが哲学するまでには最低でも十年かかるとか、そうした修行が必要だと言っていますが、確かにそうした側面は哲学にはあるのですが、それが哲学することのすべてではありません。哲学は基本的には他の学問に関して、徹底的に素人がやるものです。どこまでも素人であることが、己が哲学する内在的動
機となるわけです。で、僕はもはや素人とは呼べばしませんし、かといってプロというわけでもなく、とても中途半端な存在となってしまいました。それに気付いたとき、僕の中での一つの哲学は終わり、また改めて哲学をはじめなければならないという岐路にさしかかっているのです(それが最近の僕のテーマでもあるわけです)。
僕の哲学的立場は基本的にはたいして変更はありません。簡潔に言えば、人間の経験や理性や認識を超えた存在を認めること、つまりは実在を信じることなのです。人間の認識とは独立した存在を認めることで世界とは独立して成立してあるのだと言ってもよいでしょう。私が死んでもすべてが無くなるわけではなく、なにもかもが残るのであって、私の死とは世界内におけるただの一事実でしかないことが、同時に世界の独立性の証明であるのだと、それを考察していくことが僕の哲学なのです。ときどき立場を変更することがありますが、まぁ概ねはこの立場の上で思索をしています。

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