私の世界
私が世界
カフカ
箇条書きされた選考性の世界観(採択されるような世界)がそもそも成立しないこと。もしそれが成立しうるならば、それは競合的対立としての相対性を前提としなければならない。つまりはだ、私「の」世界と、私「が」世界との、この根本的な対立がなぜかたまたま生じてしまうことが、問題なのだ。「が」が意味するのは、それを全く考慮しない、ただ世界のみが(他の要素と関係なく)あるということであり、となると私とは、世界のうちにあるのではなく、世界そのものである(『悪霊』におけるキリーロフの思想とはそれにあたるだろう)。構成原理の真理性が複数確保されてることの相対性への転換はニーチェがすでに言ったのでここでは問題にしないが、ここで問題となるのは、カフカ的な実存主義はニーチェ流の実存主義と世界という解釈そのものが抜本的に食い違う、ということだ。いや、問題は解釈ではない。カント的に言うなれば、物自体に対する不可知性への抜本的な変更であるだろう。私は、世界というものの取り扱い方が、ドストエフスキーからニーチェ、ニーチェからカフカへと移行することで、より明晰になったと思っている。それは「が」と「の」の本
質的な差異が見せる言語的な幻想であり、その差異構造が、世界であり、つまりは私なのである。
私がもともと抹消されている世界
共同体世界が成立する以前の前提には、そもそも一つの実践を共有していないエイリアンたちによる歪(いびつ)な努力が必要とされている。
何の前提をも共有していないエイリアンとしての人間(カフカ的実存主義)による活動が実践を形成したのだ。
タブラ・ラーサ
実践のための諸前提の共有化を経験によってつくるための想定として、人間は白紙で生まれてこなければならない、というのがロックの主眼である。それは世界を内容的に把握するためのそもそもの現有を前提にしたからこそのもの。もし実践をする以前に人に内容があったならば、というのがカフカの洞察であり、もはやそれは洞察ではなく、(誰のものでもない諸無としての)世界である。その世界に私が存在するということは特異点なのだ。
ポーの一族
もともといた世界に還っていくヴァンパイア、それは消滅の先にあるイデアへの回帰性(現実世界とはただの写像に過ぎない)。

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