標(しるべ)の道

なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。
……
かつてあったことは、これからもあり、
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
……
(『コヘレトの言葉』)

 

自己紹介

名前: ラーフラ 趣味: 読書・映画鑑賞・音楽鑑賞など 好きな映画: 『リトル・ダンサー』 『時計仕掛けのオレンジ』 『マルホランド・ドライブ』 『カリスマ』 『CURE』 『月光の囁き』 『害虫』 好きなアニメ: 『極上生徒会』 『逮捕しちゃうぞ』 『かしまし』 『天保異聞妖奇士』 『カードキャプターさくら』 『千と千尋の神隠し』 『機動戦士Zガンダム』 好きな本: 大森荘蔵 『流れとよどみ 哲学断章』 永井均 『翔太と猫のインサイトの夏休み』 『これがニーチェだ』 『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』 『私・今・そして神 開闢の哲学』 中島義道 『カントの人間学』 『哲学者とは何か』 『哲学の教科書』 野矢茂樹 『無限論の教室』 『哲学の謎』 『はじめてわかるときのように』 飯田隆 『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』 プラトン 『クリトン』 『パイドン』 『饗宴』 『メノン』 デカルト 『方法序説』 『省察』 スピノザ 『知性改善論』 『エチカ』 マルクス・アウレリウス 『自省録』 ラ・ロシュフコー 『箴言集』 ニーチェ 『ツァラトゥストラ』 『この人を見よ』 ウィトゲンシュタイン 『草稿』 『論理哲学論考』 『哲学探究』 『哲学宗教日記』 カミュ 『異邦人』 『シーシュポスの神話』 好きな漫画: 高河ゆん 『アーシアン』 川原由美子 『観用少女』 尾崎かおり 『ナイフ 尾崎かおり短編集』 林家志弦 『はやて×ブレード』 冬目景 『羊のうた』 『黒鉄』 『イエスタデイをうたって』 好きなゲーム: 『ティアリング・サーガ』 『想い出にかわる君』 『メモリーズ・オフ〜それから〜』 『シスタープリンセス』 好きな音楽: 『GREEN DAY』 『アヴリル・ラヴィーン』 『新居昭乃』 『岡崎律子』 『栗林みな実』 『KOTOKO』 『YURIA』 『MOSAIC.WAV』 好きな声優: 『池田昌子』 『榊原良子』 『緒方恵美』 『矢島晶子』 『浅野真澄』 『田村ゆかり』 『千葉紗子』 『桑島法子』 『皆川純子』 『沢城みゆき』

QRコード

ブログサービス

Powered by

teacup.ブログ
RSS
投稿者
メール

 
コメント
URL
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:松本太郎
あなたのブログの「対話」や
「同性愛」についての記事の
洞察はたいしたものです。
その辺の保守的キリスト者など
比べ物になりません。
返事が無いようなので
私の尊敬する
ルター派の神学者
ディートリッヒ・ボンヘッファーの
自殺に対する神学的描写を紹介したいと
思いますディートリッヒ・ボンヘッファーは
自殺を「失敗した人生のために自己成就した罪滅ぼし。人間的に無意味な人生に最後の人間的な意味を与える試み」としています。
神学的には自殺は他の様々な死に方の一つであり、断じて罪と見なされるという「神学」は存在しません。ありがとうございました。

http://www.mctv.ne.jp/~qpqp1999/
投稿者:松本太郎
 デュルケームの「自殺論」は知ってます。最新のすごいデータかと思ってました。根本的に言うなら自殺率であって、人口ではありませんし、なにしろデータも根拠も古すぎて実存的なデータとして私は受け取ることはできません。世界人口ではカトリック教徒がキリスト教人口の圧倒的多数でありプロテスタントは少数派ですよ?これを、もってして現在のデータにおきかえるのは無理があるでしょう。
 信仰を前提としないなら、「神学」と無理にいわず「哲学」としていればいいと思います。どうして「神学」にこだわるのでしょ゛うか。「神学」とはあなたのいうとおり、ただの論点先取りの循環論法と言われても仕方ないものです。そんなものに執着する必要はないと思います。
 私が喰いついたのは、自殺がネタだったからです。ただ、ひたすら自殺は罪ではない、それを訴えたいという、まさにそういう、単細胞的なものです。
 実のところ信仰者として私は、単細胞的なのです。そして、あなたは決して小物ではありません。私にとっては大物でした。

http://www.mctv.ne.jp/~qpqp1999/
投稿者:ラーフラ
デュルケームの古典的名著の『自殺論』で、プロテスタント国とカトリック国との自殺率の相違について、すでに言及されてあります。カール・バルトがその事実についてかなり悩んだのは周知のことであり、単に松本さんの勉強不足ですね。

僕には信仰なんて特にありませんし、信仰を前提とした神学とは、ただの論点先取りの循環論法(自分の趣向とすべき信仰へとすべてを帰着させてしまうもの)としか思っていません。それは僕にはとてもつまらないものでしかありません。現実における同性愛者や弱者の悲哀なんて一個人としての僕が考慮すべきことではなく(だって僕はそういうのに無力ですから)政治や宗教上の問題であり、彼らへの立場の共感とは、ただ理解者顔したいだけの人の他との対比的な優越でしかないと思います。僕はそういう過去の歴史を過ちとみるような進歩史観的な歴史観なんて残念ながら持ち合わせていません。それは保守勢力への糾弾を通した政治的立場の次元の問題であり、ただそれだけのことです(要するに神学的解釈はその立場を押し上げるための根拠に利用されているだけです。保守も進歩も、結局のところはその目指すべき自己の正当性を確保するために言説を利用してるだけです)。

僕の言説に対して無責任だとかと言われるのは心外ですね。それは人が暴力を悪としてみることに慣れ親しんでいる単純な意味での二項対立化を自明の理とした前提での物言いであり、とても純朴で、単細胞的なものです。僕のような小物にからまないで保守の巨魁たる人たちに対して抵抗していった方がより建設的ではないでしょうか。
投稿者:松本太郎
 最後の段落でタイプミスがありましたので訂正します。 
批判と同時に言説の擁護の仕方をするのが学問なのは当たり前です。私が言っているのは特に中世ヨーロッパで起こったそれまでの神学における「擁護」ではなく「悪用」とそれに伴った、魔女狩りや、十字軍が行ったキリスト教歴史の過ちについてです。それは、まさに自殺を罪とするような、極めて神学的におかしいキリスト教保守勢力にもみられてきたことであり。そういう保守勢力が現代でおいてさえも同性愛者や、弱者を差別することを、まさに学問的に正当化させているのです。
投稿者:松本太郎
 「神学」が他の学問、たとえば「哲学」と違うところは、信仰を前提にしている点です。まさに、あなたがおっしゃる通り神学とは他の学問とは違う成り立ちであるのです。
「哲学的神学」と呼ばれるものもありますが、それもまた、信仰を前提にした「神学」のものに限られます。ですから、あなたもまた何等かの信仰を前提に表明するべきです。トマス・アクィナスもまたイエス・キリストへの信仰を前提とした上で神学と哲学について語ったからこそ神学であるのです。あなたは、どのような信仰を前提にしているのかが、問われてくるのです。信仰を前提にするというのは何等の思い上がりでもなく、通り一遍の額面通りの理解の仕方でも断じてなく、極めて学問の種類の問題ですよ。
 言論の自由は保障されるべきですから、あなたが、何を書こうと自由です。しかし、傷つけられたと思っている人の内面の心配なんて考えないというのは、私からすると非常に暴力的で無責任な思想、思考形態に感じます。書きっぱなし、ほったらかし、というのは、ほんど道徳的な問題で、もはや学問的な問題ではありません。書くということは、自由もあるかわりに、その責任も伴うのです。一番いい例が差別的文書です。
 プロテスタント信者の方が、カトリック信者より自殺する人が多、そんなデータがどこで、いつ発表されましたか?よく調べてみてください。
 批判と同時に言説の擁護の仕方をするのが学問なのは当たり前です。私が言っているのは特に中世ヨーロッパで起こったそれまでの神学における「擁護」ではなく「悪用」とそれに伴った、魔女狩りや、十字軍が行ったキリスト教歴史の過ちについてです。それは、まさに自殺を罪とするような、極めて神学的におかしいキリスト教保守勢力にもみられてきたことであり。そういう保守勢力が現代でおいてさえも同性愛者や、弱者をまさに学問的に正当化させているのです。
 
 
 
 
投稿者:ラーフラ
哲学的神学は神学にあたらないのでしょうかね。それは疑問です(また僕は学者ではないのになぜ厳密な意味でのタイトルの改変を要求されるのか理解できませんが。学問的な良心からのものなのでしょうか?)。また神学とは信仰を前提としなければできない(あるいはそれは神学ではない)というのは思い上がりであり通り一遍の額面通りの理解の仕方に安住した物言いに過ぎません。信仰の有無に関係なく学問があるとするならば、信仰を前提とした神学とは、ただのある特定の立場からの思想に過ぎず、純粋な意味での学問ではなくなると思いますよ(あるいは神学とは他の学問とは違う成り立ちであるのを意味するのでしょうか)。

ちなみに、当ブログは基本的に閲覧者は過疎です。多くの人が読まれるならば少しはネットリテラシーを働かせようとは思いますが、そんな配慮をする必要性は今のところ僕にはありません。自殺者の遺族が僕の記事を読んでどんな感想を抱くかの配慮をするかは、その読まれる人の心のうちの問題であって、仮に落胆しようが苦悩しようが、僕のあずかり知らないところであり、もし何らかの感想を抱いたならば、コメントをよせていただければいい話であり、黙って読んでいて自分は傷つけられたと思っている人の内面の心配なんて僕は考えていません。反論あるなら松本さんのように述べていただければ済む話です。

カトリック的な自殺への罪の意識が抑止にならないならば、なぜプロテスタントは自殺は罪ではないと主張するにもかかわらず、プロテスタント信者の自殺がカトリック信者よりも多いのでしょうか。僕にはよく分かりませんが、どうなのでしょう。

最後に。学問はただ検証により批判の仕方をするだけものではありません。それは片手落ちの幼稚な学問論です。批判と同時に言説の擁護の仕方をするのも学問です。基本的に人は進歩史観的な価値観に根差して各時代間を乗り越えていくものだという考えに支配されていますが、僕はそれを共有していません。ただ素朴な見解ですね、と思うだけです。
投稿者:松本太郎
哲学的神学でしたか
これは失礼しました
タイトルが神学的自殺論
だったので勘違いしました。
おそらく、多くの人は勘違いするでしょう
ですから
神学的自殺論というタイトルは
いかがなものかと思います
「哲学的神学的自殺論」とされるのが
妥当でしょう。
 神学とは、信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問ですから、あなたの言う「神を考える学」はそれにあたりません。
 あなたは(ただ罪悪と見なされる)だけと言われましたが、それだけでも十分に自殺された方を冒涜するものであり、遺族に苦しみや絶望を与えるものに違いないことは強調しておきましょう。それが神学の外での発言、特に哲学的発言ならなおさらです。インターネットは不特定多数の人が閲覧します。おそらくあなたの主張を読んだら、自殺者の遺族は落胆し、苦悩することになるでしょう。そして自殺の抑止にもなりません。
 自殺を罪悪とする見方が一般的な文化圏においても自殺者が減らないのは、そういった自殺は罪悪であるという見方、また全能の神(キリスト教以外であっても)と人との関係のあり方についてが、一切の抑止力になりえないことを証明しています。
 また、私はアウグスティヌスやトマス・アクィナスの神学を排斥したりする立場をとっていません。彼らの神学における自殺の取り扱いの問題を批判しているのです。また、彼らの神学を重んじるならば、それは批判されなければならないのです。甘んじて、それらを鵜呑みにすることは神学的なあり方でもなければ、哲学的立場でもありません。そのような失敗が中世の魔女狩りを発生させ、十字軍を正統化させ、現代ではセクシュアルマイノリティーの人々を弾圧しているのです。
 批判と検証の中から、その神学の理解と前進が与えられるものだと私は考えています。
 
投稿者:ラーフラ
断っておきますが、僕の神学とは聖書神学を意味しているのではありません。神を考える学(神に還元した学)、としての神学であり、聖書のことをほとんど触れていないのは、聖書に根拠を求めていないからです。また僕は聖書とはただの記号に過ぎず、言ってしまえば考えていくための手続きの一形式、手管の一つとしてしか思っていません。聖書を究極根拠としない自らの思考を拠り所として構築していく哲学的神学の可能性を共有してない限りは、おそらく何を言っても話は平行線で交錯することはないでしょう。

ちなみに、僕は自殺を「大罪」などと言ってはいません(ただ罪悪と見なされると言ってるだけです)。また自殺した当人や残された家族のことを道徳的に責めてもいませんし、そんなことに関心はありません。僕が関心があるのは人間と神とがどんな位置付けにあるかであって、全能の神を対置的に考えていくことで人間の可能性(と不可能性)を模索していくこと、ただそれだけであり、自殺については結局のところ、ついでに考えたに過ぎません。

厳密な聖書解釈の神学なんて僕はやる気ありませんし、そもそも僕はキリスト教徒でも何でもなく、キリスト教神学のみに限定して何かを言ってるのでもありません。キリスト教神学の形成が他の宗教やギリシア哲学から影響を受けて、アウグスチヌスやトマス・アクィナスらが利用したのも、またキリスト教神学全体を考えていく上で重要であり、それらを一概に排斥したり無視したり徒に否定するのはいかがなものでしょうか。
投稿者:松本太郎
まず人と神との等価的位置関係に関する
聖書神学的な根拠が欠如しています。
神学はあくまでも聖書に根拠を持たねばならないのは神学的常識です。
哲学と神学の違いはここにあるでしょう。
哲学のレベルでなら、それは言いえるかもしれません。
キリスト教において、まさに「神の機能の放棄、代理人の放棄」を正当化させているのはまずはアウグスティヌスが最初に表明した神学です。ですが、この時代、多くのキリスト者が、とくに女性がレイプされたりしたときに自殺したことなどを例外に置いている矛盾があるのもまた事実です。
アウグスティヌスによれば、そういう一定の条件のもとでは神の導きによる自殺があり、それは肯定されると、やや苦し紛れなことを言っています。しかし、現代の組織神学者はこのアウグスティヌスの考えについて、一切の聖書的根拠を見出せないことを指摘し、またキリスト教、ユダヤ教ではない、ギリシャ哲学の影響を指摘しています。残念なことに後のトマス・アクィナスもこれを継承し、現代の保守的キリスト教においては自殺は、まさにあなたのおっしゃる通り大罪であります。カトリック教会では自殺者の葬儀もしません。
 ところが最近の組織神学・聖書神学の発達によって、この自殺についての神学がかなり変化してきているのも事実です。
 まず自殺を否定したり断罪している箇所は聖書の中に一か所も見当たりません。反対にサムソンのように自殺を神の働きとしてすら記しているものもあるほどです。
唯一、自殺を禁じていると言うに近いものがあるとすれば十戒のみですが、これはすでに福音書によって、意識のレベルで人を憎んだ時点で人を殺したことになることが主張されておりますから、十戒を自殺をとがめる神学の基にするのであれば、自分を少しでも嫌悪した時点でそれはもう自殺したことになります。
 自殺を罪に定めるということ自体が神学的に現在ではほとんどなりたちません。自殺は神学的にみて他の多くの死に方の一つでしかないのです。
 かえって自殺を罪に定めることで、自殺した人を貶めるだけではなく、遺族たちをも絶望に追いやることになるのです。
 それが自殺であれ、ヨブが言うように主が奪われるのです。
 
投稿者:ラーフラ
私はこの文章で何かしらの自分の主張を展開して書いているわけではありませんので何に対して「否」なのかよく理解できませんが。人が人生に対して悩み苦しんだからこそ自殺するのは当たり前な話ですし、またそれについて私は本文中では何も述べていません。神学的に自殺が禁止されてる理由をただ述べただけのはずが、人の実存不安による自殺へと展開されて言及されてしまうのは、この文章の主旨からは逸脱してますので、コメントをよせていただいたのはありがたいことですが、それについては私としては答えられることはありません。ただ私の考えとしては、神レベルの理由による自殺への罪悪の形成が、じっさいに自殺する場面に出くわしたときに抑止力になればいいというだけです。罪悪の形成が人に抑止的に作用するのは道徳的にも法学的にも当てはまることであり、それだけの話にすぎません。私は別に自殺する人を糾弾するつもりで書いてなどいませんよ。それは読み違えか意図的な飛躍だと思います。
1|2

カレンダー

2012年
← May →
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カウンター

  • 本日のアクセス  
  • 昨日のアクセス  
  • 総アクセス数      

掲示板

teacup.ブログ “AutoPage”