【 今週の巻頭言 】
Happiness. Simple as a glass of chocolate or tortuous as the heart. Bitter. Sweet. Alive.
幸福。グラス一杯のチョコレートのようにシンプルで、人の心のように複雑。苦くて、甘くて、生き生きとして。 「Chocolat ショコラ 」/ジョアン・ハリス
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。
「風の歌を聴け」/ 村上春樹
日常雑記と、メインサイト「音楽とペーパーバック 」の更新ページをアップしていきたいと思っています。
兄弟ブログの「吉祥寺と周辺の街散歩 」もよろしく。
(since 2004 Dec.)
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2009/9/26
○猫を抱いて象と泳ぐ(2009)/小川洋子
盤下の詩人と呼ばれた伝説の孤高のチェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンの物語です。
極端に口数の少ない子供だった彼が語りかけるのはインディラとミイラの二人だけでした。インドからやってきた子象のインディラは大きくなってデパートの屋上から降ろすことができなくなり、そこで彼女の生涯を終え、ミイラは隣り合った家の狭い壁と壁の隙間に挟まって出られなくなって死んだ空想の少女でした。
ある日、バス会社の操車場に置かれた回送バスに暮らすチェス・マスターと出会い、チェスの魅力と奥深さを知った少年は、その才能を開花させていきます。
チェス盤には、駒に触れる人間の人格すべてが現れ出る。哲学も情緒も教養も品性も自我も欲望も記憶も未来も、とにかくすべてだ。隠し立てはできない。チェスは、人間とは何かを暗示する鏡なんだ。
チェスの試合は一人でやるものじゃない。チェス盤に描かれる詩は、白と黒、両方の駒が動いて初めて完成する。相手が強ければ強いほど、今まで味わったこともない素晴らしい詩に出会える可能性が高まるんだ。
身体が大きくなりすぎて悲劇に遭遇したインディラとミイラ、そしてマスター。彼は大きくなることを止め、からくり人形の中に潜み、チェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンとしての伝説を築いていくことになります。
盤面に置くチェスの駒音だけが響いてくるような、しんとした静かな小説です。
リトル・アリョーヒンとチェスの関係は、博士と数式のそれにとても近いのではないかと思います。孤高の二人にとってチェスと数式は、彼らと世界をつなぐたったひとつの窓だったのでしょう。
心の底から上手くいってる、と感じるのは、これで勝てると確信したときでも、相手がミスをした時でもない。相手の駒の力がこっちの陣営でこだまして、僕の駒の力と響き合う時なんだ。そういう時、駒たちは僕が想像もしなかった音色で鳴り出す。その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持ちになれるんだ。
(参考)
・猫を抱いて象と泳ぐ (amazon.co.jp)
・小川洋子 出版リスト (amazon.co.jp)
・小川洋子 作品紹介 (My HP)
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2009/9/13
先日、mixi「村上春樹的世界」コミュ主催の1Q84読書会が荻窪のカフェで開かれ、僕は「1Q84と他作家の作品との繋がり」をテーマに、主として小説構造の面から考えてみました。
「1Q84」の小説構造上の特徴として挙げられる”小説をめぐる小説”であるとの観点から、類似の構造を持つ以下の4人の作家の作品を今回取り上げてみました。
1.「高い城の男」(1962)、「流れよわが涙、と警官は言った」(1974)/フィリップ・K・ディック
2.「ガープの世界」(1978)/ジョン・アーヴィング
3.「Oracle Night(神託の夜:仮題)」(2003)未翻訳作品/ポール・オースター
4.「死の島」(1971)/福永武彦
ディック、アーヴィング、オースターは村上さんと縁の深い作家で、とくにアーヴィング、オースターは同時代の現役作家であり、相互に影響を及ぼしているのは間違いないと思いますが、福永作品との共通点の発見はとても興味深かったです。
当日配布した資料をHP上にアップしました。
http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/Lib1Q84a.htm
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2007/5/6
○もう帰るところはありません(2007)/岡田すみれこ
この詩集には岡田さんが「ミッドナイトプレス」、「詩と思想」、「むさしの文学」等に発表した25篇の詩作が集成されています。
この詩集には、ひとりの女性の生が描かれています。
彼女は美しくもなく、若くもなく、豊かでもなく、娘と息子の母であり、娘の一人は幼いときからの難病を抱えていて、彼女自身も偏頭痛の持病があり、年下の恋人がいて、それを知った夫からは離婚届を渡されています。
個々の詩から窺えるそうした事々が、どこまで作者の実像に沿ったものであるかは、岡田さん自身があとがきに記しているように、これは日記でも告白でもない作品としての詩集なのだから、僕ら読者には知る由もありませんが、詩の中から立ち現れるひとりの女性は間違いなく、それぞれの詩に綴られた物語を生きているのだと感得されます。
それは作者が作品の内に生きる彼女に託した様々な想いが、詩というぎりぎりに切り詰められた言葉により、いっそう高められた純度により現されているからだと思います。
たとえば 恋人への想い
実った想いに重ねた手を添えて
ひとつになりたい気持ちを
剥き出しの心で伝え合うとき
きっとわたしたちは
固い木の手触りや
枝や葉のしなやかさや
うっとりする果実の甘さを
充分に感じているのだ
「逢引き」より
あるいは 行き着くところが見えないことへの不安
「もう帰るところはありません」
そうか コトバはワタシを棄てて
森へ彷徨い出て行ったのか
見上げると木の葉は
風と光で瞬時に表情を変える
ふいにわたしは
声さえも失われている気がして
慌てて立ち上がろうとするのに
茫然と座ったまま
それが罰なら受けるしかないのだと
夢の中だから思っている
意識は絶え間なく流れ出て行くので
わたしはいそいで
夢から醒めなければならない
「償い」より
彼女の彷徨は、自身が心から安らげる森を見い出すことができるまで続くのでしょう。
言葉の持つ強さをあらためて感じさせてくれた詩集です。
本詩集は、以下で入手可能です。
・出版社「ポエトリージャパン」のサイト
作品「償い」の全篇が掲載されています。
・吉祥寺の書店「百年 」
・三鷹の書店「フォスフォレッセンス 」
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2007/4/15
○さくら(2005)/西加奈子
僕がまだ小学生の時、ある女の子が家にやって来た。おとなしくてやせっぽちの女の子だ。それが僕らのサクラだった。サクラは白に黒ぶちの雑種で、中型の掃除機くらいの大きさ、足元が黒くて長靴を履いているみたいに見える。一応女の子だけど、サクラという名前を言わない限り、皆オス犬だと思うような冴えない風貌で、でも僕は、首根っこを後ろ足で掻くときの優しい仕草とか、土の匂いを嗅ぎながらゆっくりと移動する不遜な態度とか、それはまるで人間の女の子みたいな、たおやかで、儚(はかな)くて、それでいて力強いものを感じさせて好きだった。
語り手の”僕”は、長谷川家の次男で、兄ちゃんはかっこよさとそのモテぶりで伝説を作り、妹のミキは母さん譲りの綺麗な女の子で、モテプラス乱暴者で名を馳せたが、僕は二人に比べたらごく平凡で目立たない子供だった。愛情深い両親とパーフェクトな子供たちとサクラ、100%の幸せに包まれたかのような長谷川家に暗雲が垂れ込めたのは、兄ちゃんが交通事故に会ってからだった。
家族の愛、友情、恋愛など、様々な愛のすばらしさと脆さとが描かれている小説です。生きていくこと、愛することがどんなに脆(もろ)く危ういにしても、どこかに大きくて暖かで、かけねの無い何かがあることを信じている作者の気持ちがストレートに伝わってきて、少なからぬ感動を覚えました。
無償でゆるぎない愛を象徴しているのがサクラなのだろう。
「サクラ。」
言葉に出すと涙が出てきた。僕らはなんて、賑(にぎや)やかな人生を歩んでるんだ。初めて見た太陽は、なんだってあんなに大きかったんだ。はは、まったく、泣けてくる。泣けてきて、そして、笑ってしまう。
「きいろいゾウ」にも犬のカンユさんが登場しましたが、あとがきによると西さんの家には、サクラのモデルになったサニーという15歳になる雑種犬がいるそうです。
戯画化された人物像や究極の兄妹愛、理不尽な災難(「さくら」では、神様の悪送球といっている)など、ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」に通ずるところがあるなと思いました。
(参考)
・さくら (amazon.co.jp)
・西加奈子 出版リスト (amazon.co.jp)
・「ホテル・ニューハンプシャー」紹介 (My HP)
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