「水害と地域社会の歴史(その2)」
環境/まち・その他
■昨日、「水害と地域社会の歴史」の投稿をました。そして、「自然のもつ『負』部分を引き受けることのできる地域社会の体力」(「負」といっても、それは人間の側の都合から「負」なのですけどね)とも書きました。すると、以前、防災の専門家・S先生からうかがった話しが頭のなかによみがえってきました。
■たしか北上川(岩手・宮城を流れる大きな河川)の下流のほうだったと思います。そこは、水害の常襲地帯。そこで、人びとは、どのように暮らしていたのか、という話しです。
■昔の家は、大きな石の土台を地面の上に置き、その上に柱を立てます。ですから、大きな水害がやってくると、屋敷はプカプカ浮いて流れていってしまうんですね。そこで、水害でも流されないように、屋敷の大黒柱と、屋敷の近くの大きな木を太い縄で結わいつけておいたのだそうです。そして水が完全に引いてしまう前に、つまり、まだ家が大きな木に結び付けられてプカプカ浮いているあいだに、石の上にきちんと柱がのるように、もともとあった場所に移動させたのだそうです。水が引いたときには、きちんと石の上に柱がのっかているというわけです。うまく説明できていないので、わかりにくいかもしれせんが・・・。
■当時のこのような水害の経験のある方たちに、S先生はインタビューされたのだそうです。たしかに、水害は大変なことなのですが、当時は、水害が年中行事とまではいわないにしても、たびたび水害がおこるものですから、どのように対処したらよいのかわかっているわけです。パニックのようなことはおきなかったわけですね。
■水が完全に引いてしまってからでは、屋敷にへばりついた泥を落とせないので、まだ家が水に少しつかっているあいだに、その水を使って壁や柱についた泥を洗い落としたていたのだそうです。子どもの頃にそのような経験をした人たちは、なつかしそうに話すといいます。ある意味、大人の手伝いをしながら楽しかったといいます。もちろん、文字通り楽しいという意味に解釈してはいけないのだとは思いますが、まわりの大人たちも「悲惨な災害」というふうには、受け止めていなかったのだと考えられます。
■その他にも、水害の常襲地帯ならではの、さまざまな「防災の知恵」、いやいや、むしろ「減災の知恵」についてもお聞きしました。このようなテーマなると、工学系の研究者だけではなく、社会科学系の研究者の登場が期待されることになります。私が所属している環境社会学会でも、少なくともお2人の研究者が、淀川、そして巨椋池(現在は、干拓されています)周辺の水害に関して調査されているように思います(詳細は知りませんが)。