「グローバリズムに対抗する/内山節の『「里」という思想』」
本・文学

■先日、少し時間があったので、京都駅前にある
アバンティのブックセンターに立ち寄りました。最近、インターネットで本を購入することが多く、本当にひさしぶりです。でも、パラパラページをめって、実際に手にとって本を選ぶほうが、何倍も楽しいものです。今回、そうやって実際に手にとりながら購入した本のなかに、
内山節(うちやま・たかし)さんの
『「里」という思想』(朝日選書、1,100円)があります。もともとは、『信濃毎日新聞』に2000年から2002年にかけて連載されていたもので、私もその連載のことを知ってはいたのですが、すでに本になっていたのですね、知りませんでした。自称“内山ファン”としては、迂闊なことでした。
■最近、「里」ブームですよね。里山はまだよいとしては、里海、里川・・・とくると、なんだか「里」という言葉も消耗品のように使いすてられていく運命にあるのかなと心配になります。人の手の加わった身近な自然を大切にしようということなのでしょうが、背景にある、政策のちょっと安易な流れに胡散臭いものを感じてしまうのです。で、内山さんの『「里」という思想』なのですが、そのような「里」ブームとは、まったく関係がありません!(キッパリ。こんなことを書くのも、ある知人にこの本をすすめたとき、「ああ、また『里山』っぽいブームに便乗した話しか」っていう反応だったものですから…)
■この本の背表紙には、次のように書かれています。
「世界を席巻したグローバリズムは、『ローカルであること』を次々に解体していった。たどりついた世界のなかで、人は実体のある幸福を感じにくくなってきた。競争、発展、開発、科学や技術の進歩、合理的な認識と判断−私たちは今『近代』的なものに取り囲まれて暮らしている。本当に必要なものは手ごたえのある幸福感。そのために、人は『ローカルであること』を見直す必要があるのだ。」
■内山さんのいうところの「里」とは、すべてのものを飲み込んでいくグローバリズムの世界的なうねりに対する、思想的な拠点としてとらえることができます。そのさい、重要になってくることは「歴史」です。歴史といっても、学校で習うような近代国民国家の枠組みを前提としたような「国家」の歴史ではありません。
「本書は、私の『村の家』がある、群馬県の山村、上野村の世界から書きだされている。そこでは、村の過去の歴史が、たえず歴史性として、物語として再生されつづけている。自然と人間の歴史はどのようなものであったのか。個人と共同体の歴史とは何か。そういったさまざまな過去が、今日も目にみえるかたちへ再生されつづける。それが現在の自分を明らかにする記憶、あるいは物語としての役割をはたす。」
■すべてを飲み込み、個々の歴史を消し去ろうとするグローバリズムの運動に対抗して、歴史性を回復を可能にする場所、過去の自然の営みが見える場所、過去の人間達の営みが見える場所、「その場所が、歴史を現在なかで再生する。」内山さんは、このような場所のことを「里」と呼んでいるのです。
■以下は、目次の紹介。
第一章 山里にて
第二章 歴史の意味
第三章 思想のローカル性
第四章 グローバルな時間と私たちの仕事
第五章 日本的精神
第六章 九月十一日からの三カ月
終 章 「未来」をどう生きる
■あまりはっきり書けないのですが・・・。今年の秋、知人のMさんと、東京のとある界隈を散策させていただいたのですが、そのさい、こゝろのこもったCOFFEEを出してくださる喫茶店にお邪魔しました。その喫茶店のママさんとお話しをしてわかったことなのですが、内山さんは、この喫茶店の超常連さんで、この喫茶店を書斎がわりに利用されているのだそうです。Mさんによれば、「時々、バッグも何もかも置いたまま、外に出ていき、また帰ってきて執筆のつづきを・・・」という感じらしい。きっと、この『「里」という思想』の元になった信濃毎日新聞のエッセーも、この喫茶店のテーブルとコーヒーから生まれたのだろうなと想像してしまいました。まあ、内山ファンとしては大満足したのでした。

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【追記】
こうやって書いてしまってから思うのですが、先日「2つの『森』の思想(その
1、
2、
3、
4、
5)」のなかの話しは、今回のエントリーと深く関係していると思います。