「大阪にも『地図と歴史』を!(その3) 上町台地の北端」
環境/まち・大阪

■大学生の娘の用事につきあって、自宅のある奈良から神戸まで車を走らせました。はい、運転と力仕事の担当でございます。昨日は、担当している4回生(4年生)の“
最終の卒論指導”で
グロッキー気味なんですけどね〜、約束だから仕方がありません

。奈良からは、第二阪奈有料道路と阪神高速道路を乗り継ぐと1時間程で神戸に行くことができます。そして、このルートは、
ちょうど大坂城の南のあたりを通過するのです。
■そこで助手席にすわっている娘に、大坂城の写真を撮ってとたのんでみました。撮影してくれたのが、次のピンボケの写真。写真技術のレベルとセンスの低さはどうも親子で似ているようです。撮った直後から、「
ぜんぜんきちんと撮れてへんわ(*^0^*)」と大笑いするんですからね、困ったものです

。

仕方がないので、以前、大阪歴史博物館から撮影した大坂城を↑載せてみました。背景には、京橋のビジネス街がみえますね。大阪歴史博物館は、高いビルのなかにあるので、大坂城を含めて、大阪の街をよくみることができます。
■さてさて、本来の話題に戻りましょう。「大阪にも『地図と歴史』を!
(その1)・
(その2)」でも述べてきたように、この大坂城のある場所は、
上町台地の一番北の端です。ネットで調べていると、面白い情報がありました。
■大阪の地元紙「
大阪日日新聞」では、2004年の10月から、「
おおさか考古学百景」という連載をやっています。「難波宮発掘50年」、「古代都市難波をさぐる」、「大阪のあけぼの」、「拓けゆく大地」と続いてきたこの連載、現在は第5部「統一への鼓動」の連載が進んでいます。昼前に、娘の運転手として神戸に出発したのですが、その前に時間をみつけて連載記事を少しだけ読んでみました。やはり、初心者は、真面目にお勉強しないといけませんから

。
■いろいろ「へ〜〜」と思うことがあったのですが、ひとつだけ紹介を。第2部の「古代都市難波をさぐる」の一番最初の記事、「
上町台地北端の旧地形」です。大阪市文化財協会学芸員の寺井誠さんが執筆されています。詳しくは記事をご覧いただきたいのですが、面白いな〜と思ったことは、発掘調査でわかってきたことなのですが、古代の上町台地北端には、
大きなものが8つ、加えて小さな谷がいくつもあったということです。今でも、起伏を感じることができるのですが、寺井さんは「古代の上町台地北端はこんな程度ではない」と述べておられます。つまり、「すごい!」ということですね。記事には、小さいですが、現在の地図と古代の復元した地図が重ね合わせてあります。
■古代の時代、土木技術が未熟な段階では、台地北端の中央部、「平たん地がもっとも広く確保できる場所」に、「難波宮」が造営されたとのこと。寺井さんは、「
整地の中には古墳を破壊して、その排土で谷を埋めている例もある。墓を壊し、家屋を撤去して、造営を推し進めたという『日本書紀』の記述が連想される。」ともお書きになっています。リンクした記事の左上には破壊された埴輪の写真がありますが、古墳には、「
破壊された古墳の埴輪。根元の部分が多いことから、埴輪が据えられたまま古墳が根こそぎ破壊されたことを物語る」とのキャプションがあります。
■そうか、この
上町台地北端(かつての半島のサキっぽ=岬)に造営された古代の都の下(?!具体的な位置関係はわかりませが)には、古墳があったのですか…。なんだか、すごいですよ。これは、朝廷とはどのような関係の人物の古墳だったのでしょうかね。この上町台地北端(かつての半島のサキっぽ=岬)は、その後、大阪にも『地図と歴史』を!(
その1)」でも述べたように、蓮如によって
石山本願寺がつくられるわけです。そして、大坂城の築城や、その後の街の建設のなかで、谷は完全に埋められていきました。現在では、かつて谷があったことなどは、よくわからない状況になっています。
■しかし、もともとあった古墳をつぶして、古墳の土(つまり墓土)を都の造営に使うとは…。これは私だけかもしれませんが、古代版「Mの時代」っぽいものを感じてしまいます。「『Mの時代』ってなに?」という方は、ぜひ話題の『アースダイバー』をお読みください。この「M」に関連して、玉井一匡さんがブログ『MyPlace』のなかで、「
メメント モリ:長い影」というエントリーをお書きになっています。
■この「
おおさか考古学百景」の連載を読んでいると、この
上町台地北端(かつての半島のサキっぽ=岬)が、交通・流通、そして経済の拠点であることがよく理解できます。私としては、もう少し、
信仰や宗教的な側面とも関連づけながら解説してほしいなあと思うわけで、もっと連載記事を読み進めていこうと思います。そのような問題も考える糸口が見えてくるかもしれません。経済的側面と信仰・宗教的側面とは、別々に存在しているわけではないのですから。
■もっとも、考古学や歴史学としては、遺跡の調査データや文書記録にもとづき、確実なことしかいえないわけで(プロの考古学者からすれば、当然そうなりますけど)、仕方がないのですけどね。それは、1月2日の投稿「
『アースダイバー』が生み出すネットワーク」にコメントをくださった
iGaさんのおっしゃる「
飛躍文化人類学」的(iGaさん曰く、「真面目な研究者からみれば飛躍や妄想が多いでしょうが、逆に飛躍や妄想が突破口になることも考えられます。」)な仕事なのかもしれません。(もしよろしければ、iGaさんの『MADCONNECTION』の「
トーキョーアースダイビング」(2005年12月27日)のiGaさんとのコメントのやり取りもお読みください。)
■iGaさんは、ご自身のブログ『MADCONNECTION』のエントリー「江戸の川・東京の川」なかで、『
見えがくれする都市』(槇文彦・他、1980年発行・SD選書)という文献についてふれています。そして、この本の第三章「微地形と場所性」を以下のように引用されています。
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「、、、大都市の中でも東京は開析谷と台地が複雑に入り組み、いわば地形のしわに左右されながら町が形つくられてきた形跡がある。このような地形的特徴と相俟って、
微地形にひそむ場所の力、すなわち土地霊などの存在を感じとり、場所性を豊かに醸成してきた例が数多く見られる。、、、中略、、、場所が持っている潜在力を生かしてものを作ってゆくという考え方は、場所の制約から開放され自由にものを置くという近代の計画手法とは対照的です。、、、」
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東京の街で観察される、「
微地形にひそむ場所の力、すなわち土地霊などの存在を感じとり、場所性を豊かに醸成してきた例が数多く見られる」という現象が、大阪のばあいでは、どうなっているのか、ぜひにでも知りたいと思うのですが、この分野の初心者にはなかなか大変です

。(ちなみに、私は、iGaさんのこのエントリーをお読みして、さっそく『見えがくれする都市』を購入しました。)
■明日(もう今日)は、またまた娘と大阪の心斎橋にでかけなくてはいけません

。これも父親の仕事なのですが、娘との用事を済ませたあと、一人上町台地を少しだけ歩いてみることにしたいと思います。そうだ、四天王寺界隈にいってみよう!!(実際は、行けるかどうかわかりませんです、はい

)

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