(荒川の土手。文豪・永井荷風も歩いたといいます。右側は、八広・東墨田。)
○「東京の元・湿地帯をダイブする(その1)」
○「東京の元・湿地帯をダイブする(その2)」
■またまた、時間があいてしまいました。8月末のことを、今頃報告です。それどころか、8月以前の出来事でも、「報告したい」「報告しなくちゃ」と思いつつ、報告できていないことがまだ山のようにあります…。とりあえず、少しずつやっていくしかありませんね〜。
■今回は、「
東京の元・湿地帯をダイブする(その1)」、「
東京の元・湿地帯をダイブする(その2)」の続きです。ご面倒かもしれませんが、(その1)と(その2)からお読みいただけると“話しの筋”が見えてきます。「
東京の元・湿地帯をダイブする(その2)」では、『
Kai-Wai散策』のmasaさんと墨田区京島の「
LOVE GARDEN」さんへ寄って京島をダイブしたあと、八広へと移動していったあたりまで報告しましたね。その続きに話しを移さないといけないのですが、その前に、この元・湿地帯につい書き留めておきたいことがあります。

■今回、masaさんと歩いた東京の東側いわゆる「0m地帯」(私流にいえば元・湿地帯ですが)、この地域がもともとどういう「履歴」をもった土地なのか、どのように形成されてきたのか、そのイメージを持ちながら町を歩くと、その土地から感じ取れるものが違ってきます(地霊を感じ取るというとおおげさですかね)。今回のばあい、鈴木理生さんの『
江戸の川 東京の川』は、そのようなイメージを持つために大変有益な本のように思つています。
■『江戸の川 東京の川』には、このような湿地帯がどのように形成されたのか、そこではどのような開発がおこなわれ、河川や水路がどのように都市システムのなかにどのように取り込まれてきたのか、そのあたりの歴史が書かれています(もちろん、それらのシステムは、現在では破壊され、忘れ去られてしまっていますが…)。詳しく紹介したいところですが、それをやっていると、この「東京の元・湿地帯をダイブする」のシリーズはいつまでたっても終わりません。そこで、本書の第2章から、少しだけ引用しておくことにします。このあたりのことは、東京の地理に関心ある皆さんや、東京にお住まいの方たちには常識的なことなのかもしれませんが、私も含めて関西に住んでいる人間にはあまりなじみのないことがらです。そういうこともあって、あえて引用します。
■鈴木さんは、この『江戸の川 東京の川』で、墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区といった東京の元・湿地帯の河川の流変について次のように説明しています。
(『江戸の川 東京の川』59頁の図をもとに作成しました。)
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点線で示したように、荒川下流は大略してA・B・Cの流路で変流を重ねたと推定される。浅草はAとBの河流の流変によって、河流にさって細長い島状の微高地と化した。Bは現在の隅田川流路、Cは荒川(荒川放水路)の線と考えられる。Aの流路は最も早く陸化し、BとCの流路は十二〜十三世紀ころまで絶えず交互に荒川河流が変流していた場所だった。河流を国境とする律令制政権以来の原則に従えは、少なくとも向島(隅田)は相当の回数にわたって武蔵になったり下総になったりしたのである。図に即していえば、浅草を中心とすればA・Bは浅草川であり、隅田を中心にすればB・Cは隅田川であった。
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■ここで鈴木さんが説明されている地域とは、「
東京の元・湿地帯をダイブする(その1)」の最後で書いたように、文京区シビックホセンターの展望ラウンジからmasaさんと「幻視」した、あの湿地(であり海)なのです。上の模式図でいえば、ちょうど私たちは、武蔵野台地の麓(?)からこの湿地をみていたことになります。
■東京の元・湿地帯にはおよそ2つのタイプがあるように思います。ひとつは、江戸時代から当時の都市計画のなかに組み込まれて、都市の一部であった地域。あるいは、明治以降、関東大震災のような大災害の後に土地区画整理がおこなわれた地域です。そこでは、街路が整然としています。もうひとつは、もともと、都市近郊の農村地域でだったけれども、都市が郊外に膨張拡大するさいに飲み込まれていった地域です。このブログでしばしば登場する墨田区の北部にある京島は、この後者にあたります。
■京島は、ずっと昔は、田畑と沼地が広がり、水路(クリーク)が走るような農村地帯でした。ところが明治に入り、この地域には、東武鉄道伊勢崎線(明治35年)、東武亀戸線(明治37年)、京成電鉄(大正12年)が開通することになりました。また、隣接する地域には
鐘淵紡績などの工場も進出してきました(あのカネボウです)。当時は、このあたりは東京市ではなく、隅田村でした。都市計画がおこなわれないまま、田畑のあぜ道をそのまま残すような形で街路が形成されていったのです。その後、東京を関東大震災が襲い、他の地域と同様に、墨田区の南部については大きな被害があったわけですが、北部の京島は火災等で消失することがありませんでした。そこで被災した人びとや、土地区画整理で追い出された人びとが、京島に移り住むようになります。そのような移住以外にも、たくさんの工場が進出しているのですから、関連工場も含めてそこで働く労働者が暮らすようになりました。そのため、昭和の最初の頃には、この一帯には庶民が暮らす棟割長屋がたくさん建設されました。第二次世界大戦の東京大空襲のときも、北部の京島は、南部のようには大きな被害を受けるとがありませんでした。このような歴史に加えて、戦後の復興とともに、さらに新しい工場が進出してくることになりました。そして、産業構造が変化や空洞化により工場が撤退すると、そこにはまた住宅が建設されることになりました。
○『転換期における地域社会と生活の変容 PART <3>-鐘ヶ淵、大森西、地蔵通り商店街周辺地区を事例として-』(浦野正樹+「産業と地域」研究会編、早稲田大学地域社会と危機管理研究所/早稲田大学文学部社会学研究室)
(Google Earthにより作成)
■Google EarthやGoogle Mapの地図や衛星写真をみると、以上のような歴史のプロセスを、街路の形態から視覚的に理解できます。墨田区北部以外だけでなく、江戸川区・葛飾区・足立区・荒川区の荒川(荒川放水路)や隅田川沿いの地域でも同様の曲がりくねった街路を確認することができます。さて、いつまでたっても、「東京の元・湿地帯をダイブする」に話しがうつりません。そろそろ、八広の町のなかさらにを進んでみることにしましょう。(このエントリー、もう1回だけ続きます。)

【追記1】本文では、鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』を紹介するとともに、引用させていただきましたが、この本とともに、江戸時代のイメージを持つには、『江戸切絵図で歩く 広重の大江戸名所百景散歩』(人文社)が有益だと思います。この本については、『東京クリップ』の
じんた堂さんに、『Kai-Wai散策』「
柳原風化景」のコメント欄で教えいただきました。すばらしい本ですね〜。じんた堂さん、ありがとうございました。
【追記2】このブログ内の京島関連のエントリーです。
○「
東京の元・湿地帯をダイブする(その2)」
○「
京島を歩く(その2)」
○「
京島を歩く(その1)」
○「
京島のLGと不思議の三角地帯」

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