
■“ご近所ブロガー”の皆さんとのあいだでは、「街・町の地理的・歴史的・社会的側面から成り立ちを考察しつつ、街・町を歩いて体感し楽しむこと」(そのことは、私たちの街・町に対する固定観念や狭いイメージを解き放ってくれます)、それを宗教人類学の中沢新一さんの著書『
アースダイバー』にちなんで、アースダイビングと呼んでいます。最近は、もっと短くダイブと呼んだりもします。今回、そのダイブを大阪でおこなうために、
『Kai-Wai散策』を運営されている写真家のmasaさんが東京から単独でお越しになりました(ファンの皆さん、『Kai-Wai散策』がしばらく更新されていないことをご心配されいたと思いますが…こういうわけだったんです)。
■masaさんの大阪ダイブは4日間におよびましたが、そのうちの2日間を、私も道先案内人として同行させていただきました。そして、2日間のうちの1日目を「上町台地編」、2日目を「淀川湿地編」という形で、ダイブのアレンジをさせていただきました。「上町台地編」、「淀川湿地編」、それぞれがどのようなダイブだったのか。『Kai-Wai散策』でのmasaさんご自身の報告を楽しみにしながら、こちらでも徐々に報告していきたいと思います。ちなみに「淀川湿地編」には、『
谷中M類栖』のm-louisさんも参加されました。どうぞご期待ください。
■さて、2日目の「淀川湿地編」では、masaさんのご希望で、まず最初に、東京佃島のルーツ大阪市西淀川区佃(つくだ)にある田蓑神社を訪問することになりました。あいにく、宮司さんはご不在でしたが、宮司さんのお母様(95歳!)から、この田蓑神社に関する資料(パンフレット)をいただき、少しだけお話しを伺わせていただくことができました。トップの写真は、そのときのものです。新緑の清々しい雰囲気が漂う境内のなかで、杖をつかれたお母様と腰からきちんとお辞儀をされるmasaさん、このシーンがなんともいえず「いいな〜、ステキだな〜」と思いつつ、シャッターを押したのでした。

■田蓑神社の境内のなかには、「佃漁民ゆかりの地」と彫られた石碑が建てられています。この大阪市西淀川区佃が、東京佃島のルーツなのです。“ご近所ブロガー”として親しくさせていただいている
masaさん、
Akiさん、
iGaさん、
tamさんの皆さんと初めてお会いし、ミニ・ダイブご一緒させていただいた場所が東京佃島でしたので、今回の西淀川区佃の訪問、なんだかとても感慨深いものがありました。関西人である私も、このあたりについては土地勘がなく、はたしてダイブとして相応しいところなのかどうか少々心配していたのですが、masaさんの「ぜひ行きたい」という強い希望のおかけで、とてもすばらしいスタートとなりました。
■東京佃島と大阪西淀川区佃との関係、もう少し詳しく見てみましょう。「淀川ビジネス・エキスポ2007」のサイトのなかにある「
淀川こぼれ話」で、わかりやすく説明してありますので、引用してみたいと思います。
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「天正年間(1580年頃)、徳川家康が住吉神社に参拝、摂津多田神社へも参ろうとして、当時、田蓑島といわれていた佃に来たが渡し舟がなく(神崎川の出水説あり)、困っていました。これを見て村の庄屋らが漁船を貸し、漁民が船を操って家康一行が渡るのを助けました。喜んだ家康は田蓑神社にも参り、漁民たちに、漁業だけではなく田も耕して励め、地名を佃にせよと言ったと伝えられています。その働きによって税金免除の特典を与えられた佃の漁民は、大坂方に対する隠密役や献魚の役なども命じられました。
天正18年(1590年)、小田原城が落ち、家康は関東へ下向しますが、田蓑神社の神職、平岡庄太夫の弟の権太夫好次は神社の分霊を持ち、33名の佃村漁民を連れて同行。その縁で、佃村は大坂の冬・夏の陣のときも徳川方につき、漁民たちは家康を当地から堺へ護送したり、西国方の船団を看視したりしたのでますます気に入られ、正保年間(1644年頃)、浅草川下流の鉄砲州向干潟をいただいて開拓、生国の名をとって佃島と改め、分神霊を安置しました。これが東京佃島の住吉神社です。
佃煮は、捕れた魚を腐らぬよう煮染めたのが起こりという説もありますが、この住吉神社の祭礼に、佃島の名物のシラウオを塩漬けにして神前に供えたのが、そもそもの始まりです。」
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■この引用文中で「徳川家康が住吉神社に参拝、摂津多田神社へも参ろうとして、当時、田蓑島といわれていた佃に来たが渡し舟がなく…」とあります。田蓑神社は、江戸時代には住吉神社と呼ばれていました。しかし、江戸時代以前ですので、徳川家康が参拝したのは、現在の住吉区にある住吉大社のことではないかと推測します。
住吉大社は、田蓑神社も含めて全国にある住吉神社の総本宮です。徳川家康は、現在の大阪市住吉区にある住吉大社から、兵庫県川西市にある
多田神社に移動して参拝するためは、川を渡らざるを得ず、そのためには漁民の力を借りなければならなかったわけですね。

【上段左】田蓑神社の鳥居です。カメラを構えている男性は、masaさん。東京佃島のルーツを訪問できたことを、masaさんはとても喜んでおられました。【上段中】この鳥居は、東京佃島にある「住吉講」によって寄贈されたものです。【上段右】境内の背景には、集合住宅がみえます。まわりは、住宅地として開発されています。【下段左】徳川家康ゆかりの神社であることから、境内には、「東照宮」があります。【下段中・右】阪神淡路大震災のとき、この佃地域は大きな被害を受けました。近くにお住いの男性にお聞きしたところ、地面の液状化現象が生じて、かなりの住宅に被害が出たようです。こちにの神社についても、鳥居が壊れました。田蓑神社と石碑も、ちょうど「神」のところで、断裂してしまったようです。現在は、金属枠で復元されています。東京佃島からも復興援助があったとの
情報があります。そのような東京佃島との関係についていえば、昭和40年からは、西淀川区の佃小学校と東京佃島の佃島小学校との交流もおこなわれているようです。

【上左】大阪府と兵庫県の境になる佐門殿川。対岸は、兵庫県側の工場です。【上中】経年変化をしたトタン小屋。明治中期頃から、この地域は工場が進出し、昭和の段階では工業地帯となったようです。高度経済成長期、このあたりは公害に苦しみました。【上右】マンション建設や、新しい一戸建ての住宅建設が進んでいます。戦後の古い住宅、高度経済成長期に建設された団地、最近建設された高層マンション。それらが混在している地域です。風呂屋の煙突が見えます。【下左】この階段の向こう側は、神崎川の堤防です。【下中】おそらくは、昭和30年代後半から40年代にかけて建設された集合住宅でしょうか。
■田蓑神社に参拝したあと、私たちはいったん梅田に戻り、こんどは阪急京都線で淡路駅まで行き、淀川右岸から出発して左岸の旭区にダイブすることになりました。そのことについては、別のエントリーで報告いたします。

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