
■大阪市城東区です。第二寝屋川と平野川が合流するあたり、「
新城見橋」の上から西を向いて撮影したものです(この川は、寝屋川と合流し大川(天満川)となり、中洲である中之島をはさんで堂島川(北)と土佐堀川(南)に分かれますが、中之島の西の端で再び合流、合流した後は安治川となり大阪湾に至ります。大阪や関西をご存知ない皆さんには、細かすぎる話しですね)。ここは、じつは、大阪の近現代史を考えるうえで避けては通れない、「大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)」と「アパッチ族」の舞台となった場所なのです。少し長くなりますが、説明させてください。
■このエントリー、masaさんのブログ『
Kai-Wai散策』の「
大阪俯瞰景」(2007年10月25日)に強く触発されて書いています。関西に来られたmasaさんをご案内したわけなんですが、逆に、masaさんのそのときのエントリーから刺激をいただくことになりました。masaさんとの大阪ダイブは、大阪城付近からスタートしました。このスタート地点のエリアには、戦前、「大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)」があり、火砲を中心に様々な兵器を製造していました。陸軍直属の大規模な製造工場です。終戦直前、この大規模な工場を、アメリカ軍はB29で爆撃しました。約700トンの1トン爆弾を集中的に投下しました。その結果、「大阪陸軍造兵廠」は壊滅しました。
■戦後、ながらくこのエリアは廃墟のまま立ち入り禁止区域になっていましたが、生活に困窮した在日朝鮮人・韓国人の皆さんが、廃墟の残った鉄屑・金属屑を掘り出すことを始められました。アパッチ族と呼ばれました。鉄屑・金属屑とはいえ、それらは、法的には国家財産であるということもあり違法行為でした。厳しい警察の取り締まりもありました。私が生まれた昭和33年(1958年)頃のことです。作家の開高健は、このアパッチ族への取材をもとに、小説『日本三文オペラ』を発表しました。masaさんは、エントリー「
大阪俯瞰景」のなかで、直接にではありませんが、この開高健の『日本三文オペラ』のことに触れられていたのでした。
■masaさんに、この「大阪陸軍造兵廠」のことを説明され、『日本三文オペラ』を勧められたのは、大阪在住の
光代さんでした(光代さんは、お生まれ・お育ちとも大阪、このブログでは、
こちらで紹介しています)。お若い頃、廃墟のままに残っていたという大阪陸軍造兵廠跡地を、身近にご覧になってこられたのです。私自身は、神戸で高校生をしていたとき、自宅にあった『日本三文オペラ』を読んでいたはずなのですが、どうもただ読むだけで(乱読のなかの1冊)、きちんと受け止めることができていませんでした。というわけで、「これはいけない」と、早速、開高健の『日本三文オペラ』をamazonで取り寄せ、30数年ぶりに再読したのでした。

■JR森ノ宮の近くにある公団住宅の屋上から撮影させていただたいものです。左手に森のようなものが見えますが、ここは大阪城公園です。その手前に見えるのが、大阪環状線。そしてJRの森ノ宮電車区です。高層ビルがたっているあたりが、大阪ビジネスパー

ク(OBP)。その右横に、紅白の煙突が見えますが、これはトップの写真にも写っているものです。清掃工場の煙突です。そして、その手前にずっとひろがっているのが、大阪市営地下鉄の森ノ宮車両工場です。「大阪陸軍造兵廠」は、この写真に写っている広大なエリアすべてに広がっていました。この撮影ポイントである公団自体も、「大阪陸軍造兵廠」の一番南の端に位置していました(この公団住宅の敷地のなかには、右のような「大阪砲兵工廠跡」の文字が刻まれた小さな石碑がたっています)。ものすごい規模です。アジアで最大というのも、よくわかります。

■地図で確認してみましょう。この地図は、『日本三文オペラ』と同時に入手した『地中の廃墟から<大阪砲兵工廠>に見る日本人の20世紀』(著・河村直哉)のなかに掲載されていた地図です。そこに、少し加筆してあります。Aがトップ写真の、@がふたつめの写真の、撮影ポイントとその方角です。太い実践で囲まれた部分が「大阪陸軍造兵廠」です。そして下の地図も同じ本に掲載されいた「大阪陸軍造兵廠全図」です。じつに様々な工場や施設があったことがわかります。最盛期には、6万人以上の労働者が働いていたようです。大阪環状線(当時は城東線)は、軍事工場の間を走っていたわけですね。ただし戦前は、この「大阪陸軍造兵廠」、高い壁に囲まれていたといいます。JR森ノ宮駅と京橋駅は高架にあるのに、そのあいだに現在ある大阪城公園駅(当時はありませんでした)は平地の駅です。これについては、「中を見せないように、わざとここだけ高架にはしなかっのだ」、という説があるようです(でも、1931年に竣工した復興・大阪城の天守閣からは見えちゃうんじゃないの、と素朴な疑問もあるんですけどね)。

■さて、開高健の『
日本三文オペラ』の舞台となった「アパッチ部落」ですが、トップの写真で確認できる橋(下城見橋)の右側(北側)にあったといわれています。現在では、マンションが立ち並んでおり、かつての面影をストレートに感じとることはなかなか難しいわけですが、環状線のガードをくぐったむこうにある「大阪ビジネスパーク」と対比したときに発生する、大きな「風景の落差」が生み出すエネルギーを用いれば、かつての「アパッチ部落」の風景を想像することも不可能ではありません。
■ところで、さきほど紹介した『地中の廃墟から<大阪砲兵工廠>に見る日本人の20世紀』の第6章では、実際に「アパッチ部落」に暮らしていた小説家・梁石日(ヤン・ソギル)さんや、詩人・金時鐘(キム・シジョン)さんの聞き書きを読むことができます。それらの聞き書きと、開高健の『日本三文オペラ』とのズレがみられますが、それは当然でしょうね。次は、梁石日『夜を賭けて』も読んでみたいと思います(
映画にもなっているようです)。そのうえで、こんどは作品の内容にも踏み込んでみたいとも思います。今回は、あまりゆっくる歩いている時間がありませんでした。とりあえず、印象記のような報告です。次回は、じっくりと。

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