
■少し小高い台地の上にある森。土地が発するかすかな記憶のメッセージを受信するめに、妄想力の感度をめいっぱい上げて、集中力を高めてみましょう。すると、この森のむこうに「縄文の海」がひろがっている…そんな気持ちになってきます。イメージがクリアになったら、静かに目をつぶります。すると、こんどは理解できない不思議な言葉が聞こえてきます。この台地をおりて、縄文の海に行こうとする縄文人の会話です。縄文時代にタイムスリップです…。
■妄想力全開のスタートになりました。う〜ん…、ちょっと危ないですかね。ここは、京浜東北線「上中里」駅裏の切通しの坂道を登ったところ、すなわち上野台地の上にある
平塚神社の小さな森です。と書いても、東京にお住まいではない皆さんには、よくわかりませんよね…。申し訳ありません。この付近の地図をリンクしておくことにします。(
Googleマップ・上中里駅付近)

■Googleマップをご覧いただくとおわかりいただけると思いますが、平塚神社の横には大きくカーブを描く道路があります。上野台地から、上中里駅にむかって下っていきます。上の写真がその道路です。写真の左側は、平塚神社の敷地につながる法面(のりめん)になります。道路は、かなりの坂道です。だからでしょうか、タクシーもブレーキランプがずっと点いています。しかし、じつに"美しい"切通しでもありますね。むこうのほうには、東北新幹線の高架も見えますね(じつは、この高架、かなり高いです)。平塚神社の前を走る本郷通から、この切通しを下り、上里中駅前を通過し、京浜東北線を超えて、東北新幹線の高架下をくぐると、左折して道はさらに下り、やっと上中里町に到着します。何が言いたいかといいますと、台地と平地とのあいだにはかなりの高低差があるということです。

■さて、ここでもう一度、縄文時代にタイムスリップすることにしましょう。台地を下ると、
masaさんが「おたふくのたれ目」と名付けられた特徴のある地域がひろがっています(すぐ後で説明します)。左のサムネイルは、上中里駅そばのJRの線路をまたぐ陸橋です。このむこうは、「おたふくのたれ目」の右目地域なのですが、かつて、ここには「縄文の海」がひろがっていたわけなんですね〜。縄文時代、海面は現在よりも高く、現在、平野になっている地域にもかなり深く海が入りこんでいました。というわけで、この陸橋を渡ると、「縄文の海」は、もうすぐそこにあります。縄文時代、冒頭の平塚神社の森のあたりからは、現在、足立区のあたりになっている対岸とのあいだに、「縄文の海」がひろがっているのが見えたはずです。感度を上げてください。神経を集中させてください。磯の香りがしませんか(あっ…しませんか…一部の方たちだけですかね)。

■さて、ここでGoogle Earthの画像で、「おたふくのたれ目」を確認してみましょう。いかがですか?線路に囲まれたエリア、「おたふくのたれ目」に見えますよね〜。たれ目の右目のほうが上中里、左目のほうが東田端になります。明治の時期の地図をみると、このあたりは農地になっています。いつ頃から、どういう経過で、こういう「おたふくの目」状態になってしまったんでしょうね〜…。それはともかく、このあたり、鉄ちゃんになり損ねた私にとって、かなり楽しいエリアです。が、今回の目的は鉄道ではありません。「縄文の海」に戻りましょう。Google Earthの画像をもう一度ご覧ください。「おたふくのたれ目」の右目で、楕円で囲んだ場所、ここには国指定史跡「
中里貝塚」があります。

■はい、ここが「中里貝塚」です。「ただの殺風景な公園やんか…」という声が聞こえてきます。はい、そのとおり(だからこそ、イイんです!)。しかし、この公園の下に巨大な貝塚が眠っているのです。中里貝塚の存在自体は明治時代(1886年)に学会報告され知られていたのですが、きちんと調査されたのはつい最近です(1996年)。この巨大な貝塚からは、2種類の貝殻がみつかります。牡蠣とハマグリです。ここでwikipediaの解説を見てみましょう。
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江戸時代から貝殻が大量に出土する「かきがら山」として知られ、南北1キロメートルほどになるものとされる。(中略)貝塚は奥東京湾西部の海岸線に沿っていることが明らかになり、牡蠣(マガキ)や蛤が大半を占め、
春先のカキと初夏のハマグリが交互に堆積している。遺構では、
貝を加工したと考えられている皿状窪地が発見されている。これは底部に粘土を塗布し周囲を枝で覆ったもので、底部からは貝殻や焼礫、炭化草木が検出されており、
穴で貝を茹でたと考えられている。また、海中で
牡蠣をつけるために立てたと思われる杭列や、たき火跡なども検出されている。通常の貝塚は生活遺物が出土するが中里貝塚には見られず、集落から離れ
内陸部へ干し貝を供給する加工場に特化していたと考えられている。ほか、丸木舟が出土している。牡蠣を養殖していたとすれば、これまで古代ローマに始まったとされていた牡蠣養殖の歴史が大幅に遡ることになる。
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■いや〜興味深いですね。ここは、縄文時代の水産加工工場だったのですね!!しかも、牡蠣がつきやすいように、海のなかに杭を立てていたというのにも注目です。現在でいうところの養殖と同じものと考えていいのかどうか、私にはよくわかりません。しかし、少なくとも、牡蠣が付着しやすいような環境を、海中に人為的につくっている…ということは間違いないと思います。最近、「里山」が注目されていますが、この中里貝塚のばあいは、貝塚とともにあった海は「里海」と呼べるのかもしれまん。左上の写真は、公園の解説板にあった地図です。6000年前(縄文前期)の海が示されています。赤い線は、4500〜4000年前(縄文時代中期中葉から後期初頭)にかけての海岸線です。中里遺跡がちょうど海岸線上にあることがわかります。この中里遺跡にいて、東京都北区の
飛鳥山博物館のホームページにわかりやすく説明してありますので、ご覧いただければと思います。
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約4000年前の中里貝塚の想像図
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発掘中の貝塚
○
採取する貝の種類と大きさ
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貝の加工
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交易

■「殺風景な公園」になっている中里貝塚遺跡ですが、そこにはきちんと解説板があります。その解説板に描かれていた想像図です。こういう文書がそえられています。イメージが膨らみますね〜。
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今から約4千数百年前のまだ肌寒い春先のある日…中里の海岸では例年通りの作業を行う人々の姿が見られます。舟を出してカキを採る人、運ぶ人、蒸し上げて身を取り出す人、殻を捨てる人などがいて、うまく役割分担をして共同作業を行っています。
目の前に広がる穏やかな内海には規模の大きいカキ礁が形成されており、舟を出せば簡単にカキを採ることができました。また、その先に広がる砂浜に舟を出し、海に潜れば大型のハマグリが採れました。桟橋に水揚げされた貝は加工の場に運ばれ、貝蒸し用の穴でむき身にされます。先祖の代より連綿と捨てられ、積もり続けた貝殻は小高い山になり、その先端は海を埋め立てています。
彼らは台地上の御殿前のムラや西ヶ原のムラなどから来た人々で、貝を採るのに適した季節になると、海岸に降りてきて集中的に貝を採っていました。村々は共同で作業にあたってました。むき身にされた貝はそのまま、あるいは干貝に加工され、内陸の村々に運ばれました。
カキの季節も終わりに近づき、そろそろハマグリの季節がやってきます…
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(もし、ここまでお読みになって、一番トップの写真の見え方が違ってきたとすれば、それは素晴らしい!!ことだと思いますよ〜。)
■ちょっとここで写真を3枚。左の写真、「貝塚町会館」と金文字の看板が。地元の自治会の建物のようです。住所表記は「上中里」になっても町会(自治会)の名前はしっかり生きているようです。中央の写真、これは公園として整備された中里貝塚池木でみつけた、貝塚の貝がらの小さな欠片です。おそらくは、ハマグリの貝殻の欠片です。もちろん、盗掘ではありませんよ。このような欠片が、公園の地表に石ころのようにたくさん散らばっているといいますか、ころがっているのです。公園として整備する工事の最中に、たくさんの遺跡の破片が紛れ込んでしまったのかもしれません。このハマグリを縄文人が手にとってむき身にしたのかと思うと、心は一気に4000年前に戻ります。右は、「おたふくのたれ目」のなかにある中里貝塚訪問に満足している関西人です。縄文人ではありません。

【追記1】■今回は、『Kai-Wai散策』のmasaさんにご同行いただきました。ありがとうございました。今回のミニ・ダイブのコース、実際は、このエントリーの展開とは逆に進みました。西日暮里から歩き始め、「おたふくの目」をウロウロしながら中里貝塚を訪れ、そのあと上野台地にのぼり、本郷台地とのあいだの複数の商店街を歩きました。そして、駒込から上野に移動し、こんどはモツ煮込みとホッピーにダイブしてしまったのでした。たいへん満足度の高いミニ・ダイブになりました。「あっ、ここは!」、はい、そのとおりでございます(^^;;。
【追記2】■縄文時代の水産加工場については、琵琶湖の周囲の縄文遺跡でも確認されています。もちろん、牡蠣やハマグリではなく、セタシジミと呼ばれる淡水二枚貝です。また、貝にまじってコイ科魚類の喉にある咽頭歯という小さな歯もまとまってみつかっていますつまり、貝だけでなく、魚についても大量に加工されていた可能性があるわけですね。魚類の形体を研究している知人の研究成果から知りました。いつか、このような話題についてもエントリーできればと思っています。
【追記3】■自然に働きかけて、自然の恵みを得やすくする…そのような人間の営みは、さまざまな地域、さまざまな時代で行われきました。考古学の対象となる過去だけではなく、私が専門にしている環境社会学の分野でも、現在の地域環境保全に関して
「半栽培」という概念をもとに研究を進めている人たちがいます。

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