言語や音楽(主にロシアのピアノ音楽)、大学での仕事などに関する雑文、読書日記などのBLOGです。
なお、当BLOGとは別に「高橋健一郎研究室HP」も開設しています。右下のリンク集からどうぞ。
2009/6/28
昨日「第8回札幌大学ロシア語弁論コンクール」が無事終了。
昨年に引き続いて高校生の活躍が目覚ましかっただけでなく、今年は東京から出席してくださった中学生も非常に上手に詩の朗読をしてくれて、高校生以下の参加者が全員上位に入ったのが印象的だった。
さらに特筆に値すべきは、うちの大学2年生たちの多くがB部門のほかにも、最難関のA部門に果敢に挑戦し、全員うまくこなしていたのがたのもしい。ロシア語をまだ1年数カ月しか勉強していないのに、ここまでやれるのはたいしたものである。
主催者側としては、ロシア領事館の総領事ご夫妻やサハリン州代表部の代表の方などのご列席を賜りながら、審査員も学外の先生方をメインにして、さらに学内の大きなホールで行うことで、「本格的なコンクール」という雰囲気を作ろうと努めているのだが、参加者たちがそれに応えてくれて真剣に取り組んでいたことがうれしい。
中には不本意な出来に落ち込み、涙していた学生もいたが、それはそれで一所懸命に準備したということの証でもあって、実際には結果以上のものを学んだはずである。語学の勉強は果てしない道なのだから、一つの結果に一喜一憂することなくこれからも勉強を続けてほしい。
今は学科行事の見直しの時期でもあって、今後これだけの予算と規模でコンクールを続けていけるかどうかは分からないけれど、何らかの形でロシア語のイベントは続けていきたいと思う。
ボランティアで働いてくださった学内外の皆様、参加してくださった皆様、聞きにきてくださった皆様、ありがとうございました。

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2009/6/25
札幌大学が主催する(一応)全国規模の恒例の「ロシア語弁論コンクール」が今週土曜日(6月27日)午後1時から札幌大学キャンパスで開かれます。
A部門:自由題でのスピーチ(5分)、質疑応答、課題テキスト朗読
B部門:自由題でのスピーチ(4分)
C部門:詩の朗読
この4月にロシア語を学び始めたばかりの者から留学帰りの人までさまざまなレベルの人が参加できるコンクールです。今年の参加者は東京や青森の中高大学生を含めて全部で46人、審査員はロシア領事館やサハリン州代表部のネイティヴ・スピーカーをはじめとして、北大や東海大、北海道新聞社の方々にもお願いしています。
はじめから最後まで一般公開していて、プログラムにはすべての詩とスピーチのテキスト(ロシア語と日本語訳)が掲載されていますので、どなたでも楽しめるものとなっています。
このところずっとその準備に携わってきましたが、学生たちの努力には目を見張るものがあります。まだまだたどたどしい部分の多いロシア語ではありますが、学生たちの日頃の勉強の成果をご覧になりに、ぜひ足をお運びください。
・2009年6月27日(土)
・13:00〜(17:30終了予定)
・札幌大学2号館3階プレアホール
(なお同日キャンパス内では受験生向けの「オープンキャンパス」も実施しています)

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2009/6/16
通勤で札幌の地下鉄東豊線に毎日乗るのだが、その車内の自動アナウンスの中で2週間ほど前に突然ある変化がおこった。「豊水すすきの」(ホウスイススキノ)の駅名が以前は「●○○○○●●●」(●は高、○は低を表す)と読まれていたのだが、「○●●●●●○○」のように変わったのである。(下の追記を参照:2009年6月25日)
どのような事情でこうのように変えられたのかは実際のところ分からないが、でもこの変更は言語学的には説明可能である。
日本語のアクセントは高低アクセントだが、基本的に一つの単語の中でアクセントの山が一つしかできないという原則がある。
二つの単語が組み合わさってできた複合語の場合、一つ一つ独立させて読み、二つの山ができることもあれば、全体で一つの単語のようにまとめて読み、山が一つしかできないこともある。
人名の場合、普通は姓と名を独立させて読むことが多いが、例えば「徳川家康」のような有名な人名は、全体で一つの名前という意識が強いせいか、「○●●●●●○○」のように一つの山しかできない読みが優勢のようである(「○●○○○●○○」のような読みも可能)。
「豊水すすきの」は「豊水」と「すすきの」という二つの地区名が合わさった複合語だが、従来の読みは一つ一つを独立させて読む読み方であり、新しい読み方は全体で一まとまりの地名という認識がもとになっている。
この「豊水すすきの」は実は地元でもそんなに浸透している名称ではなく、いかにも複合語といった感じがして、なじみにくい。だからこれまで車内アナウンスでも「二つ山」で読まれていたし、実際に地元の人の発音も「二つ山」のほうが圧倒的に優勢である。それがここにきて地下鉄があえて「一つ山」型の発音に変えてきたということは、この名称から「複合語っぽさ」を取り除き、地元民に一つの名称だという意識を植え付け、なじみ深くさせるためではないのだろうか?
そう言えば、すすきのにありながら、駅自体かなり地味で、利用者も南北線の「すすきの」駅に比べると相当少ないらしい。そんな駅のイメージアップのためにアクセントを変化させた――こんな政治性を読み取るのは、深読みしすぎだろうか?
追記(2009年6月25日):その後アナウンスをもう一度よく聞いてみると、「○●●●●●○○」ではなく、「○●●●●●●●」であった。それでもアクセントの山は一つであるのに変わりはないので、上で書いたことの本質的な部分は同じである。ただし、もしかしたら「ほうすい」自体の発音が「●○○○」から近年「○●●●」と移ってきて、それを反映させただけ、という可能性もあるかもしれない。
追記2(2009年6月28日):ネットを調べたところ、23日の北海道新聞のサイトに「豊水すすきの」のアナウンスのアクセント変更についての記事があった。それによれば、豊水地区の地元では昔から「○●●●」であり、これまでのアナウンスがおかしく、今回の変更で本来のアクセントに戻ったとのこと。ただ札幌市民でも豊水地区以外の住民にとっては、「豊水」という地名を地下鉄のアナウンス以外で聞くことがほとんどないから、少なくともこの20年くらい「豊水」のアクセントは従来の地下鉄アナウンスのとおり「●○○○」が主流だったと思う。
いずれにしても、変更の理由が明らかになり、私の「推理」は間違っていたのだが、それでも結果的にアクセントの山が一つとなり、「複合語っぽさ」が和らぐいうことは
変わりなく、「豊水すすきの」のイメージが多少変わる契機になるのではないかと思う。

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2009/6/14
このところ、日本語とロシア語の対照文法、特に「連体修飾節」について考えている。その中で「格」の問題に興味をもち、2年前に出た小泉保『日本語の格と文型:結合価理論にもとづく新提案』(大修館書店、2007年)を読んだ。
この本はフランスの言語学者テニエールの結合価理論に基づいて、それを日本語に合う形で修正しながら日本語の格と文型を論じたものである。
「結合価理論」とは文の中核を「述語」と見て、必要な行為項が述語に結合して文が成立すると考えるものである。たとえば、「笑う」という動詞述語は「誰が」という行為項を一つだけ要求するので「1価述語」であり、「もらう」は「誰が」「誰から」「何を」という三つの行為項を必要とするので「3価述語」である、というようなことが言われる。
私がこの「結合価理論」に初めて触れたのは10年以上前にロシアに留学したときに受講していた、大学の言語学部の1年生向けの「言語学入門」の最初の授業でだった。
文法理論というのは、いかに「普遍」を謳ったものであっても、多かれ少なかれ理論家の母語ないし研究対象の言語の特性の影響を受けるものである。たとえばチョムスキーの「生成文法」の理論はやはり英語を対象にした思考から出てきたと思わせるところがたくさんある、というように。
それに対してこの「結合価理論」というのは、テニエールという20世紀前半のフランスを代表する言語学者によって考案されたが、テニエールはロシア語をはじめとするスラブ語の専門家でもあり、だからこそ考え付いたのだと思われる。
この理論はドイツで昔からかなり高く評価され、語彙の記述に採用されているほか、ロシアの言語学でもいち早く取り入れられ、1960年代にはメリチュークらの「≪意味−テクスト≫モデル」などに応用されている。日本語への適用はまだそれほど進んでいるわけでもないだろうが、日本語のように主語がない場合があったり、格が明示される言語の場合は、「主語」を最上位に置くような理論よりも、「結合価理論」のほうが合っているようだ。いずれにしてもドイツ語、ロシア語、日本語のように格関係がはっきり示される言語には有効性の高い理論だと思う。
ただ、たとえば「会う」は「誰が」と「誰と」を「行為項」として必要とし、「どこで」は不可欠な要素ではないので「状況項」となるのにたいし、「生まれる」は「誰が」と「どこで」の二つが必須の「行為項」となる、というように説明されているが、わたしにとっては後者の「どこで」は「必須」とは思われない。「行為項」と「状況項」の区別が曖昧で、区別することに何の意味があるのか、というような疑問はロシアの大学の講義で聞いた時にも感じたのだが、それは本書を読んでも同じだった。
ほかに、「象は鼻が長い」が「象の鼻が長い」を基底文とするという説を批判する中で、「カキ料理は広島が本場だ」が同様に書き換えられない例を挙げているが、これなどはおそらく著者の勘違いだろう(「象は鼻が長い」と「カキ料理は広島が本場だ」は総主構文の中でもタイプが異なるものだから)。
それから個人的な関心からいって最大の疑問は、日本語の「格」の分類に関してである。本書では「日本語の格は、格助詞によって表される」とされ、その数を「ハ、ガ、ヲ、ニ、カラ、ヘ、デ、ト、ヨリ、マデ、ノ」の11個として目録を作っているが、格の体系だった説明を目指すのであれば、「ニツイテ」とか「トシテ」などのいわゆる「複合格助詞」も考慮にいれなければ十分ではないように思う。たとえば「昨日学生について話した」という場合、「〜について」は「話す」の必須の「行為項」であり、しかも「ニツイテ」はこの場合ほかの格助詞では代替不可能なれっきとした「格助詞」である。(連体修飾節を考えるときにも、これらの複合辞を助詞とみなさないと、説明がおかしくなってしまう場合もある。)
このテーマはこれまで専門的に勉強したことがなかったので、細かなところに関して判断することはできないし、上に記したのような疑問点などもいくつかあるが、それでも日本語とロシア語という系統の違う言語を対照して研究する際にヒントとなりそうな点は数多く、もう少し勉強を重ねていきたい。

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2009/5/30
昨日は北海道ポーランド文化協会のコンサートに出演した。出演と言っても私は今回はピアノソロではなく、歌の伴奏のみで、ソプラノ歌手の松井亜樹さんと珍しいショパンの歌曲3曲(作品74−3,12,9)を演奏した。
金曜日は今学期一番忙しい日で、朝の1講目から90分授業が3コマ(+雑用)があるので、ふつうはそれだけでも十分大変なのだが、昨日はそれが終わってからホールにかけつけ、簡単にリハーサルをやり、いきなり本番という結構きついスケジュール(本当にピアノソロで出なくてよかった〜)。でも出演者の中で男は私一人だけだったので、畳のある結構広々とした一つの楽屋を独占することになり、本番前にしばらく横になって休めたので、すぐに回復。
ショパンの作と思えないほど音の少ない地味〜な伴奏でありながら、とても味のある曲だし、ソロのような恐怖感を感じることもなく適度な緊張感をもちながら、気持よく演奏できた。
昨年の20周年記念コンサートに比べると集客は少し少なかったものの、多くの方に聞いていただけありがたかった。ご来場くださった皆様、ありがとうございます。
ところで、去年も何度か私の伴奏を聞いてくださったピアニストの方が昨日「高橋さんって、伴奏もお上手ですよね、意外と」とおっしゃってくださったが、お世辞にしても、最後の「意外と」ってどういう意味なんだろう? そんなに人のことを考えずにガシガシ弾くイメージなんだろうか?

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2009/5/24
言語学の雑誌『月刊言語』の2009年6月号の特集は「リズムを科学する(生命活動と相互伝達を支える基盤)」。
言語学以外に人間学や人工知能、認知ロボティクス、応用数学、知覚心理学などさまざまな研究分野の専門家が論文を寄稿している。
外国語学習やその教育に携わっていて思うのは、少なくとも日本では外国語学習においてリズムに対する関心があまり高くないということである。言語学を専門にしている人であれば、ロシア語や英語は強勢拍をもつ音節がリズムの基礎となる「強勢リズム」であり、日本語は各モーラがほぼ同じ長さで発音される「モーラリズム」(日本語の場合だいたい2モーラで一つの単位となることが多い)ということは知っているが、その違いについては韻文の授業のときに少し触れられる以外、外国語の発音練習で利用されることはほとんどない。
ロシア語の音声学の授業でも、基本的には一つ一つの音の発音とせいぜいイントネーションに関することだけが扱われ、リズムについてはほとんど指摘されることがない。
最近の学生は耳がいいのか、ロシア語に関して言うと昔の偉い大先生方よりもむしろ上手にロシア語らしく発音する学生が多いように思うが、それでもどんなに個々の音の発音がうまくても、まったくロシア語らしく聞こえてこない場合が往々にしてある。それはひとえに、ロシア語では「強勢拍」の繰り返しがパターン(難しく言えば「ゲシュタルト」)を構成するということが体感されていなく、強勢拍と強勢拍の間を等間隔に響くように読むということができずに、淡々と流れる日本語のモーラ・タイミングが入り込んでしまうからである。
逆に強勢リズムのロシア語話者がモーラリズムをもつ日本語を読むと、どうしてもすべてを強弱のリズムの中に入れて読んでしまうから、はなはだ聴きとりにくくなる。例えば「ニッサン」(Nissan)は日本語では「4モーラ」なのに、ロシア語では「2音節」となるから(おまけにアクセントのない母音はかなり弱化するのもあって)、どうしてもロシア語では詰まって聞こえてまい、ききとりにくい。
雑誌のいくつかの論文を読むと、こういう言語のリズム認知は胎児の段階からすでに始まっているそうで、生後数カ月で言語のリズムのタイプの違いを認識できるらしい。それほど体に染みついたリズムを変えるのは難しいかもしれないが、だからこそ外国語学習の際にははじめに意識的にそこを訓練したほうがいいのだが、残念ながら今のところそこまでは教育の場に取り入れていないのが実情である。
雑誌の論文では音楽のリズムに触れているものもいくつかある。言語リズムが胎児のころから体に染みつくものであるならば、音楽などにもそれが影響を与えると考えるのがむしろ自然だろう。実際日本の伝統音楽(能楽や義太夫など)ではモーラが重要な役割を果たしているらしい。
日本人に西洋音楽が演奏できるのか、という問いが昔から存在するが、そのときに問題となるのは文化的な知識の違いというよりももっと根源的にはリズム感の違いが一番大きいのかもしれない。
といっても、言語と音楽の関係はあまり短絡的に考えるべきではないのだろう。例えば、フランス語やイタリア語などは英語やロシア語と違って、各音節が等間隔で並ぶ「音節リズム」をもち、その点ではむしろ日本語の「モーラリズム」に近いからである。
言語リズムのようなごく幼少のころに身につくリズムのほかに、大人になってからいろいろな身体技能を身につけるなかで獲得するリズムというものもある。藤波努氏の「身体技能の習得に見られるリズム」はピアノと土練りという二つの作業を取り上げていておもしろい。ピアノ演奏も土を練る作業も、リズムという観点からみると共通し、初心者は単純リズムで動き、熟練者はポリリズムで体を動かせる、という。いろいろなリズムを自動化するまで体に叩き込み、それを無意識に同時に使うということは、もしかしたらあらゆる身体技能に共通することなのかもしれない。
最近音楽を演奏するさいに、いかに体の中心部でリズムの鼓動を感じ、いかにそれを指先まで自然に伝えていくかということを意識するようになったが、緊張してうまくいかないときの演奏は、まったくそれができていない。逆にそれができているときは、たとえ音が多少はずれようとも、全体としては音楽が自然に流れていく。
言語や音楽のリズム、そしてそれを身体技能として身につけていく過程を少し勉強してみたくなった。


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2009/5/22
今日発表された第一生命の「サラリーマン川柳」を見ていたら、こんなのがあった:
「パパがいい!」それがいつしか「パパはいい」
(はりきりパパ・第22回サラリーマン川柳第8位)
言うまでもなく、助詞の「が」が「は」に替わっただけでなく、「いい」の意味が「良い」から「不要である」というように大きく変化しているのがこの川柳のポイントである。
これは日本語のネイティヴスピーカーなら分からない人はいないほど自明だけれど、おそらく外国の日本語学習者でこの意味を即座に理解できる人はあまり多くないのではないだろうか。
「パパはいい」に関して言うと、これ単独だけで取り上げた場合、「パパはいいけど、ママはだめ」というような「対比」の意味になることもある。外国の日本語学習者にとっては「が」と「は」の違いはまずここにあるから、この川柳をみたときにも「パパはいい」の部分を「対比」と捉えてしまう人が多いのではないかと思う。
「文法的にはそういう解釈もあり得るはずだけれど、実際にはない」・・・こういうところに外国語の難しさがあり、これを外国の学習者に理論的に説明する日本語教師は大変だろうと思う。
こんなことを考えたのは、ロシア語に関して今日ちょうど逆のことがあったからだった。今日の2年生の「ロシア語文法」の授業での問題の一つ:
・Композитор ( ) эту оперу 18 лет.
(作曲家はこのオペラを18年間・・・)
という文があり、( )の中に入る動詞が (создавал / создал)(作った)つまり「不完了体/完了体」のどちらになるかを選ぶというものである。
これはもちろん "18 лет"の「18」が対格で、ここでは「18年間」という継続期間を表しているので、動詞は不完了体を選ばなければならず、正答は создавал となる。この手の問題はすでにいくつも出てきていたから、簡単だろうと思っていたのだが、ふたを開けてみるとクラスのかなり多くの学生がこの 18 лет を「18歳のときに」という意味と捉え、создал という完了体動詞を選んでいたことがわかった。
でもそこでふと気づいたのだが、ロシア語では "18 лет" を "восемнадцати лет"のように「生格」と読めば、実は「18歳のときに」という意味にもなり得るのである。手元のロシア語文法書にもたとえば「25歳のときに」を表す表現として
"двадцати пяти лет"(生格)
"в двадцать пять лет"
"в возрасте двадцати пяти лет"
"когда ... было двадцать пять лет"
などが挙げられており、「生格が年齢を表す」というのは生格の特殊用法として普通に認められている使い方である。
そう考えると、少なくとも理屈上はこの問題文も「作曲家は18歳のときにこのオペラを作った」という意味として解釈することも可能となるのではないか、という気がしてくるのだが、クラスにいるバイリンガルの学生にきくと、「いや、これはそういう意味にはならないはず」と言う。
結局、普通に考えてこれは前置詞を伴わない「時を表す対格」であり、「18年間」という意味であると説明して、お茶を濁して授業を終りにしたのだが、授業後にロシア人の先生に事情を説明して質問してみた。
その先生によると、「生格で確かに年齢を表すことはあるが、この文をその意味でとるロシア人は一人もいない。まず生格で年齢を表すのは古い用法であり、それにたいていの場合は от роду(生後)という表現が省略されているように捉えられ、Он лишился отца ещё пяти лет(彼は5歳ですでに父親を失った)のような場合ならいいが、何歳のときに仕事をした、というような文脈ではまず使われない」とのこと。結局この文では「18年間」という意味にしかならない、というところで落ち着いた。
こういうことは辞書にも文法書にも書いていなくて、「文法」というよりはほとんど「語感」の部類に入る問題だろう。ある程度ロシア語の勉強をしていると、文法に関してはたいていのロシア人よりはうまく説明することができるようになる(と言うより、ネイティヴスピーカーは母語の文法を説明することはなかなかできないのが普通である)。でも、こと「こういう言い方が普通かどうか」というような「語感」に関わる部分になると、何年勉強してもなかなか自信がもてないものである。
こんな例は外国語を教えたり、翻訳などをしていると、いくらでも出てくる例なのだが、つくづく外国語をマスターするのは難しいことだと毎回思わされる。

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