2004/8/21
この1,2週間、ようやく少し自分の勉強時間が取れるようになったので、この数年来気になっていることについて雑文を書きました。それは、「隠喩」と「提喩」についてです。一般に、隠喩とは「類似性に基づいた比喩」であって、例えば「男はオオカミだ」のようなもの、提喩とは「部分を全体で表す比喩」であって、例えば「花見」の「花」が「桜」を指すような例が挙げられます(ほかにも、「換喩」と言って、隣接性に基づく比喩があり、例えば「キツネうどん」などが例として挙げられます:「きつねは揚げが好きである」という俗説に基づいた隣接性)。これをめぐって1997年3月号の月刊『言語』のチャレンジコーナーのシニア版に、籾山洋介氏によって次のような問題が出されました:
比喩は、語のレベルだけでなく、「足を洗う」などの句についても、構成語の和としての意味から比喩に基づき慣用的意味が成立していると考えられる場合があります。以下の(1)(2)(3)の各々の句について、ジュニア版で説明した「隠喩」「換喩」「提喩」のいずれに基づいて慣用的意味が成立しているかを考えて下さい。そう判断する理由も簡単に説明すること。(1)煮え湯を飲ませる (2)言うことを聞く (3)的を射る(的を射た) (籾山1997:129)
その「模範解答」によれば、(1)は提喩、(2)は換喩、(3)は隠喩です。そして、さらに「解説」によれば、「足を洗う、足を引っ張る、骨を折る、実を結ぶ、宙に浮く、虫の息、風前の灯火」は隠喩、「危ない橋を渡る、石橋を叩いて渡る、足元から火が付く、氷山の一角、渡りに船、寝耳に水」などの句は提喩であるといいます。
しかし、実際に応募した人のうちの数人が隠喩と提喩を取り違えたらしいことからも分かるように、この場合の隠喩と提喩の区別は非常にわかりにくい。「花見に行く」や「人はパンのみにて生きるにあらず」という表現が「提喩」であるのは納得がいきやすいのですが、「氷山の一角」を提喩と呼ぶのが(少なくとも私には)すぐには納得がいかないのはなぜなのでしょうか。
このチャレンジ・コーナーでは、隠喩の例「虫の息」と提喩の例「氷山の一角」のそれぞれについて次のように書かれています。
「虫の息」は、字義通りの〈虫の(弱い)息〉と〈人間の今にも死にそうな弱々しい息〉という慣用的意味の類似性に基づき、後者の意味が成り立っています。(籾山1997:130)
「氷山の一角」の〈氷山全体のうちの、海面上に現れているごく一部分〉という構成語の和としての意味は、〈大きな物事のうちの、表面に現れているごく一部分〉という慣用的意味の一種であり、[…]より限定された意味の表現でより一般的な意味を表していることになります。(籾山1997:131)
しかし、この両者の間に大きな違いは果たしてあるのでしょうか。確かに「彼はもう虫の息だ」という発話においては「(息について)とても弱い」という意味の類似性に基づいて「虫の息」は隠喩でしょう。しかし、もしそうであるのならば、「この事件は氷山の一角に過ぎない」という発話における「氷山の一角」も隠喩ではないのでしょうか。
あるいは「氷山の一角」を提喩と主張したいのであれば、「虫の息」だって「弱々しい息」という類概念を種概念で代表させた提喩となるのではないのでしょうか。「虫の息」の慣用的意味〈人間の今にも死にそうな弱々しい息〉の中に「人間の…」という文句が滑り込んでいるために分かりにくくなっていますが、これは単にこの慣用表現が「死にそうな人間について」用いられる事が多いというだけであって、《慣用的意味》としては〈弱々しい息〉だけを考えればいいはずです。そうなれば、「虫の息」と「氷山の一角」はまったく同じようなメカニズムによって慣用的意味が成立しているということになるのではないのでしょうか。さらに、同じように考えれば、同じチャレンジコーナーのジュニア版で取り上げられている「隠喩」の例である「Aさんは職場の花だ」の中の「花」も、「美しく人目を引くもの」という類概念を種概念で代表させた「提喩」ということにならないといけないはずです(グループμが主張するように)。
もう一つだけ例を取り上げましょう。籾山氏は「骨を折る」を隠喩とし、「煮え湯を飲ませる」を提喩としています。「煮え湯を飲ませる」は慣用的意味である〈ひどい目に合わせる〉ことの一種であるから「提喩」であるといいますが、「骨を折る」だって〈ひどく精を出す〉の非常に極端な一種であるとはいえないのでしょうか(もっとも「煮え湯を飲ませる」だって実際にはまずあり得ない「非常に極端な」一種ではある)。
結局、やはりグループμが主張したように「隠喩は二つの提喩の積」(グループμ1981:210)であり、隠喩と提喩は同系である(佐藤1992:201)というのは正しいのでしょう。「AはBの一種である」という関係が成り立つのが提喩なわけですが、しかし「パン/食物」「桜/花」の関係が「種/類」であるというのは自明であるにしても、「氷山の一角/大きなもの事のうちの表面に現れているごく一部分」「花/美しく人目を引くもの」の包摂関係は決してそれほど自明なものではなく、もし「職場の花」を隠喩とするならば、「氷山の一角」も「隠喩」とした方がいいのではないでしょうか。
隠喩と提喩の同系性についてはさまざまな人が論じていて、取り立てて新しい問題ではありませんが、この「氷山の一角」に関してはどう考えたらいいか、自分でもまだあまり自信ありません。どなたか、ご専門の方でも、ご教示頂けたら幸いです。
・・・
グループμ(1981)『一般修辞学』佐々木健一・樋口桂子訳、大修館書店
佐藤信夫(1992)『レトリック感覚』講談社
籾山洋介(1997)「チャレンジコーナー」/『言語』Vol.26, No.3, 126-131.
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投稿者: Takahashi
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投稿者:Takahashi
通行人さま
メタファーやメト二ミーは人間が世界を把握するときの最も基本的な認知操作でしょうから、言語学の世界から拡張されていくのは当然の成り行きなのかもしれませんね。
ご紹介くださった本のことは知りませんでした。ありがとうございます。とても興味をそそられるので、いずれ見てみようと思います。
投稿者:通行人
最近メタファーは言語学の世界から拡張され、ビジネス界でも注目されているようですね。最近読んだ関連図書で面白いのが2冊あります。一つは著者ジェラルド・ザルツマンによる「心脳マーケティング−顧客の無意識を解き明かす」で、これはこれまでメタファー研究を研究調査手法に取り組んだもの。もう一つは著者山本真郷・渡辺寧による「非営利組織のブランド構築−メタフォリカル・ブランディングの展開」で、これはメタファー概念を主にブランドの研究に取り組んだもので、いずれもメタファーやシネクドキ、メトニミーなどの可能性を示しており面白かったですよ。これもメタファー研究の「氷山の一角」でしょうかれども。