2008/6/13
言語変化はたいてい、新しい世代の話者が何らかの新しい言語的要素を導入し、旧世代の言葉遣いと並存・対立する時代を経て、世代交代とともに新しい言語要素が支配的になっていく――というプロセスを経る。
しかしもちろん現実にはそれほど単線的に「旧→新」へと変化が起こるわけではない。一人の人間の言語生活をとってみても、歳を取るにつれて、それまでの人生で使わなかった「古い言葉」を使い出すようになることがある。
例えば、いわゆる「オトナ語」と呼ばれるような語・表現(「進捗状況」だとか「マンパワー」だとか「手前ども」などなど)は学生時代には使わなくても、就職すれば使うようになる。
こういうのはいわば職業的な「ジャルゴン」(集団語)だから、歳を取って社会に出て、古い世代の人々が支配的である世界に身を置けば、そういう「古い言葉」を新たに身に着けなければならないというのは、当然のことだろう。
でもほかに、特に理由があるとも思えないのに、歳を取ると突然使い出すようになる言語現象に出くわすことはないだろうか? 昨日の4年生の専門ゼミでそのような話題になったときに、思い出したことがあった。
昨年だったか、ある待ち合わせに遅れると思って焦って急いだところ、着いてみると約束の10分以上も前。安心してホッと口をついて出てきたのが「余裕のよっちゃん!」という言葉。
それまでの人生で「余裕のよっちゃん」なんて言葉を使ったことも使おうと思ったこともないし、周りでそれほど使う人がいたわけでもないのに、こんな古めかしい死語がなぜかそのとき突然自然と体から出てきたことに自分で驚いた。
それで思い起こされるのは、中年になると多発するようになると言われる使い古された「だじゃれ」や「オヤジギャグ」。「余裕のよっちゃん」も「よ」という頭韻を踏んだ一種の言葉遊びであり、「だじゃれ」の一種である。
こういう「だじゃれ」の類を歳とともに多用するようになるというのは、歳とともに「オトナ語」を使うようになる、というのとは少し事情が違うのではないだろうか? 後者が、それを使いこなしていくことによってその社会の一員として認められていくためのものであるのに対し、「だじゃれ」の類は、言語の「遊戯的機能」とでもいうべきものを求めるがために使われるのだろう。
言語の遊戯的機能に対しては「おやじ」だけではなくて、本当は子供が一番敏感である。例えば「バスの運賃」と聞いて「バスのうんち」と想像して笑い出す子供が少なくないように、子供にとって言葉の一つ一つはオトナにとってよりも、もっと広い意味をもったものなのである。しかし、教育を通して文字によって言葉が少しずつ固定され、言葉はだんだんと柔軟性を失っていく。それがある程度まで行き着いたときに(すなわち、「おやじ」になったときに)言葉の柔軟性を回復させるために、昔からの「だじゃれ」を自然と愛するようになるのだろうか?
まったく説得力のない戯言だが、そんなことをふと考えた。
投稿者: Takahashi
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投稿者:Takahashi
ねね様
やっぱりもう「中年」だからでしょうか?
学生の言葉遣いと比べると、最近なんとなく歳を感じます。
投稿者:ねね
タイトルみて、「あれ、どうかされたか?」
と思っちゃいました(笑)。
うーん、「余裕のよっちゃん」という言葉
を発しているお姿、イメージできません。