2005/12/16  18:54

パリーガー仰木氏死去について(その2)  NPB(Nippon Professional Baseball)

西鉄(現西武ライオンズ)に入団以降、引退後の西鉄・近鉄コーチ、近鉄・オリックス監督とパ・リーグ一筋で勤められた仰木彬氏が昨日肺ガンによる呼吸不全で亡くなられたことは前回のエントリーで書いた・゚・(つД`)・゚・

どうも昨年、檻牛の監督を引き受けた時点で既に予感はしていたような記事を見つけた。
スポニチアネックスOSAKA:仰木氏立つ「グラウンドで倒れたら本望」新球団監督要請受諾
だが混迷の続く球界、その中心にいる”古巣”の存在が体を突き動かす。「野球人がグラウンドで倒れたら本望」と腹はくくった

今季限りで監督を退かれ、「シニアアドバイザー」という肩書きが付き、本当に現役のままグラウンドで倒れられたのですね・゚・(つД`)・゚・

そして「誰よりもオリックスを愛している記者」夕刊フジ(ZAKZAK)の高塚たん(高塚広司編集委員)も哀悼の言葉ですよ……
ZAKZAK:仰木氏、不良中年演じる好ましさ…言い訳一切なし

仰木さん、重ね重ねお疲れさまでした・゚・(つД`)・゚・

(前略)
◆ "いてまえ"&"がんばろう"の継承目指す ◆
 関西国際空港からオークランドまで丸一日がかりの長旅の中で、仰木氏は球界復帰を決意した。オリックスから新監督の就任要請を受けたのが9月24日。熟慮の末、受諾の最終的な決め手となったのはオリックス、近鉄両球団、そして球界への愛着だった。
 史上最高齢監督の情熱は衰えることを知らなかった。「私は野球に育てていただき、近鉄、オリックスには本当にお世話になった。その合併球団の指揮を要請されたことは非常に光栄だ」。両球団の統合に端を発し、球界再編の波が史上初のストライキにまで発展したことに深く心を痛めていた同氏。「野球人としてここまで育ててもらったのは両球団のおかげ」。統合球団のシンボルとして周囲から適任者と判断されれば、動かない訳にはいかなかった。
 監督業の過酷さは身をもって知っている。1,720試合、13年にわたる監督生活はまさに骨身を削るものだった。体力面、健康面に不安がなかった訳ではない。実際、01年オフにオリックスの監督を退いてからは「本当にいい終わり方をさせてもらった」とユニホーム人生に一度はピリオドを打った。だが混迷の続く球界、その中心にいる”古巣”の存在が体を突き動かす。「野球人がグラウンドで倒れたら本望」と腹はくくった。
 受諾の連絡を受けたオリックス・中村ゼネラルマネジャーは「要請していた時から手応えはあったが、正式に答えがあるまでは不安だった」と笑顔。今後の組閣などについては米国の仰木氏と密に連絡を取り合い、最大限に意向をくむ方針。「監督就任発表とともにスタッフ発表を目指したい」とし、今月10日前後の帰国までに人事面での外郭を整える構えだ。
 「グラウンドの主役を監督ではなく選手。選手たちがやる気を起こせるようなチーム作りを第一にしたい」。両球団の伝統を作り上げ、輝かしい実績を積み重ねてきた仰木氏。目指すは「いてまえ打線」の伝統と、「がんばろう神戸」の精神の継承だ。

仰木さんの訃報(ふほう)を知り、昨年12月、野球殿堂入り記念パーティーで頂いた記念品の扇子を手に取った。広げると白檀のにおいと「信汗不乱」の4文字造語。意味するところを聞いたが失念した。座右の銘など好まなかった方(だと思う)だし、深くは考えないことにしている。
 頭脳明晰(めいせき)ゆえか、言語がついてこられない。表現が難解で、近鉄の監督就任(88年)から2年間は、談話後に担当記者同士で解読した。その作業は楽しみの一つだったが、深読み、曲解…を後で気付き、冷や汗をかいたことも。それでも「ああいったとらえ方もあるのか。あの記事は面白かった」と話してくれた。
 記事に対するクレームや言い訳は一切なし。ファンやマスコミには、あくまで優しく接することを貫いた。そこに端を発し、過剰サービスも。近鉄時代には「オレの趣味は飲む、打つ、買う」。実際は、オフになると独り旅を楽しみ、絵画も愛するシャイな面があった。その辺りをベールに包み「港、港に女ありや」と不良中年を演じる姿は好ましかった。

 枯淡の境地に入ったこの1年のオリックス仰木監督は、もっとすてきだった。断片的ながら、野球哲学の一端も語っている。

 「(監督を)引き受けた限り、どんなにしんどくても、しゃきっとした姿を見せなくては。チームの士気に影響する」

 「選手の技術を見る目は並みかもしれないが、人そのものを見る目はある。大事な資質と思っている」

 「仰木マジックと評されるけど、マジックなんて使えるワケがない。野球はデータが基本」

 「オレの人生のピークは57歳まで(その年、近鉄の監督を辞任)。あとは余禄。(監督として)グラウンドで倒れても本望」

 この1年、握手を求められる機会が何度もあった。印象に残っているのがシーズン終盤の9月。記者は、8月に体調を崩し遠征には帯同できる状態ではなかった。それを気遣ってもらえたのか「アイツはどうしているんや」。人伝に聞き球場に駆けつけると、ベンチ裏に呼ばれ、まずは握手。弱弱しい握りだったが、手のひらは温かい。
 「最近の記事はいい線いってる。でもハズレもあるな。とにかく、球場に足を運んで応援してくれや」と、すでに体調不良だった監督から逆に激励された。単独で交わした会話はそれが最後になった。
 人生の師で、野球革命の先駆者でもあった故三原脩氏(西鉄時代の監督)との深いつながり、伝説の10.19、イチローたちまな弟子とのきずななど今後も語り継がれるだろうが、記者はあの日の仰木監督の手の感触を忘れない。ご冥福(めいふく)をお祈りします。



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