筒井康孝の「天狗の落とし文」を読んでいる。
短い文章で完結されたエッセンスのような文が、眠る前に読むのにちょうどいい。
この1年半、いろいろあったので長編小説を読めなくなった。
目が悪くなったせいもあって、集中力が続かなくなった。
でも本は好きで、活字があるとついつい目が追ってしまう。
きょう電話で長話をした人から
南木佳士(なぎ けいし)の「阿弥陀堂だより」を勧められた。
図書館に行き、同じ作家の「ダイヤモンドダスト」も一緒に2冊借りてきた。
「話をする」ということ。
生前、父が「おばちゃん同士の会話を聞いていると、ちっとも会話になっていない。それぞれが勝手に自分の言いたいことをしゃべり、ストレスを発散しているだけ」と言っていた。自分の考えと違う考えを持つ人の言うことをじっくり聞き、
「なるほど、そんな風に考えるのか」と捕らえ、自分と違っていることを楽しむ。
「あの人ならなんていうだろう?」「あの人の意見を聴いてみたい」と思う人同士がしゃべるとそこで初めて会話が成り立つのだろう。
自分が疲れているとき本が読めないのは、
本の内容を受け入れるだけの余裕がないからで
会話も同じような気がする。
身のある会話、あとどのくらいできるだろう。
きょうはまじめな話でした。

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