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獄中歌 藤本松夫 (1962年)
[『ハンセン病文学全集 第8巻 短歌』(皓星社、2006年)より
許可を得て転載]
寝はぐれて夜ふけの獄に夏虫の白壁這うを吾は見ていし
獄の蜘蛛は白壁伝い高き隅に一夜の内に巣を作るなり
獄にして暑中見舞書きていつこの夏痩せは母に告げずも
年毎に小さくなりゆく吾が夢か秋空今日も碧し
獄塀も沈みし暗の空に佇ち遠き蛙をたぐりつつ聞く
台風のそれて静けき屋根添いに蜂の飛びきて鋭き影曳く
ふんわりと夕日に赤きちぎれ雲今日も一日無事に過せり
送り来し人形なれど許可ならず手にも触れず領置す獄の悲しさ
今朝替えし花筒の水臭いだつ昼を臥し居り獄のベッドに
視界せまき獄舎の窓にわがよれば親しく住みし山遠く見ゆ
秋夕焼もゆるが如き獄塔に明日もとなえる番号哀し
はるばると母の便りの着きし日よ心を濡らし日照雨降る
獄庭に小さく咲きし菊花をながむる今日は父の命日
靴音をきけば誰ぞとわかるまで病長かりし独房にいて
泣きに来し母の小さき顔の皺ただおろおろと見守るばかり
面会の次回の日をば指おりて数える母はいたく老けたり
護送車の窓にすがりつくごとくして叫びし母の声を忘れず
出獄の背広に替えて別れ言う囚友の笑顔は日本一なり
扉開くれば背むきし吾に会釈する母夏やせて先ず泣きにけり
闇を貫く群蛙の声哀し母と暮らせし日と異ならず
死刑なるが故の孤独かまなぶたの焼け付くまで本を熟読す
夜勤終えてかえる看守に羨望を感じていたり獄の休日
主の平安汝にあれと祈る母の手紙束になりて幾度か読む
さようならと立てばおろおろ面会の母は寂しき瞳し給う
一生の仕事をもちて生きぬけと子に云いきかせ吾は愚かにて
刑長きもののみが持つ性なるか吾も何時よりか壁際に座す
差し入れのタオル謝して使う朝故郷の香りを深く息吸う
限られし鉄格子の視野一杯に降り来る秋日に摑まりてたつ
独房に一人布団を繕いて手馴るる寂しさに我は疲れつ
憶い出は悔につらなるものばかりにてこの寂しさを支うるものなき
区切られし冷たき壁の底にいて午前八時の飯を喰い居り
悲しみは二九の年につながりて獄に三九の年を迎うる
主なる我が神を讃うる唄なりきすがすがとかくわれら唄うは
苦しみの半生の記録にて風に吹かるる悲しみもある
貧乏人も食える時代が来ると言う政治の声が我を支うる
一枚の葉書なれども深深と療友は囚なる我をいたわる
諦めし母よりやさしき文ありて一字一句をなつかしく読む
いどみ来る言葉に耐えて微笑める死刑囚吾を意識して居り
病む我がメモ紙になす薬包紙囚友等もそれぞれ用途持ち居り
手を曳きしことも記憶あり高校二年になりし吾娘の文読む
許可を得て庭に出づれど一歩二歩我に近づき看守は見つむ
くつろぎて獄の夕餉に向かうとき愛しき我子の顔ふとかすめぬ
朝日射す鉄窓に移しし菊鉢に蜂の飛びきてうすき影曳く
信ずると言えど心に不安あり祈る思いで夕餉に向う
綻びし囚衣縫い着て今日もまた手にする針に母を想いぬ
木に残る年輪の如く吾が過去も残ると知りて恐ろしく
雨降れば雨具なしとて休む子のかくも多きか淋しき空席
待つ事に疲れて眠る夜の夢に母よりの文幾束も来し
風つのる獄の夕窓ひたすらに巣をいとなめる蜘蛛は殺さず
澄み渡る空の青さよ真実の再審を寄せよ我は祈る

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