2005/9/29

Keep paddling  

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久しぶりのシーカヤックです。

実はまだ一度も塩水に浮かべたことのない箱入り娘の愛艇“轟天号”(沈む沈む)を日本海の荒波で鍛えるべく、パンダにのっけて行ってきました。
場所は新潟の福浦八景。
安曇野から高速使って二時間半くらいです。
今回は妙高にあるモルゲダール倶楽部さんというショップのツアーにまぜて頂きました。
http://www.morgedal-club.co.jp/

当日は台風17号の影響からか、空には何やら怪しげな雲が渦巻き、風はほとんどないのですが、波のうねりはかなり大きめ(当社比)
ぼんやり漕いでると船酔いしそうです。
視界のはじっこで隣のカヤックがふっと波間に隠れたかと思うと、次の瞬間には自分がフネごとふわりと持ち上げられています。
何か大きくて毛並みのいい動物の背中の上で揺られている気分です(わお)
途中、小さな入江に上陸してお昼を食べ終わったあたりから雨も降りはじめ、冒険指数は更にアップ : )

こんな悪条件のときにはいつも思うのですが、たとえば、このうねりって僕たちがいなくても起きてるんですよね。
雨もそう。風もそう。
僕らがいなくても見てなくてもカメラが回ってなくても、海の上ではいつもどこかで風が吹いててうねりが起きて空が真っ黒になって嵐がやってきて地図にも載ってないような無人島の椰子の木がぶんぶん揺れちゃって倒れちゃってすごい波とか来て魚がびちびち打ち上げられて砂浜なんかぐっちゃぐちゃになってしまっているんですよきっと。

だれも見てないのに!

僕がこうしてパソコンに向かっているいまこのときにも、空には南を目指して渡る鳥の一群があり、海の中ではクジラが歌い、南極のどこかはじっこの方ではペンギンが魚を追いかけて氷の下を飛び回っているはずです。
近年劇場公開された英仏系のドキュメンタリーはそんな想像を容易にしてくれましたね。
森では枯死した老樹が倒れて陽が地表に達し、実生がその光を受けてまた空を目指しています。
川の畔ではカワセミが魚を狙い、熟して水面に落ちたやまなしを追いかけてカニたちが岩の間を走って行きます(この話おぼえてるひと、はーい)

だれもいない海や森や川で起きてるいろんな出来事のひとつひとつを想像し始めるといつも、この星の上に在るすべてのものの動きがみんなひとつに繋がってあたまとカラダの中に飛び込んで来るその感覚に思わずカラダが震えて飛び上がりそうになります。
すべてがいまこのとき同時に在って生きているという現象を、僕たちは想像し感じることが出来るのだと思います。
正しい知識と好奇心さえあれば。

本日の一枚
映画“地球交響曲”の第四番で、プロサーファーのジェリー・ロペスが“Keep paddling(漕ぎ続けよ)”という言葉を使っています。
ここで言うPaddlingとは、サーフボードの上で腹這いになって手で水をかくことなのですが、カヤックの上においてもまた、同じPaddlingという名の行為を通じて彼のその言葉を理解することができます。
あきらめずに漕ぎ続けよ。
望んだことは、あきらめたところで終わってしまうのだ、と
僕はそんな風に解釈しています。

追記
結局、ラダー(舵)の付いてない轟天号は僕の腕では荒海に耐えられないと判断され(涙)、ツアーではまたシングル艇をお借りすることに。
待ってろ轟天号。
もっと経験を積んで今度こそ海に連れてってやるからな。
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2005/9/19

ピオーネ  

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実家に長野らしい秋の味覚を送ろうと、つてを辿ってぶどうを狩らせてもらいに行ってきました。

今回伺ったお宅は観光用に看板を掲げているわけではなく、身内やお知り合いに少しだけぶどう摘みの場を提供されているとのこと。
ほとんどはワインや生食向けの出荷だそうです。
トラックがびゅんびゅん行き交う国道に面した、教わらなければまず行き過ぎてしまうような小さな入り口を曲がると、玄関までの道の両脇はもう涼しげなぶどう棚。
綺麗に整えられた棚の下へ、少し猫背気味に入ると、あたり一面にほのかな甘い香りが漂っています。

この日のお目当ては、“ピオーネ”という超大粒種なしぶどう。
酸味が少なく、柔らかな甘みはしつこすぎずでとてもいい感じです。
実家へ送る分はプロの目利きに任せて選んでもらい、僕は味見と称してひたすら食させて頂きました : )
この品種、酸味が少ない分だけ甘さがより強く感じられるためか、男性ウケがいまひとつとのこと。
でも僕的にはその果肉の厚さからくる食べ応えに、上品な甘みがぴったり合ってると思います。
調べてみると、“ピオーネ”というのはイタリア語で“開拓者”という意味だそうで、英語で言うところの“Pioneer”なんですね。
巨峰とマスカットを掛け合わせ、ぶどう業界?の未来を切り開く期待の星として静岡で生まれたのが昭和32年。
当初は正に“パイオニア”という名前だったそうです。
その後、岡山で種なしの“ニューピオーネ”が生まれ、現在ではこれが一般的にピオーネとして広まり、巨峰よりワンランク上の“黒い真珠”として人気品種に。
なるほどー
ま、当日はそんなウンチクなど知る由もなく、すっかりフルーツコウモリと化して手をベタベタにしながら食べまくり、ぶどうのお話など色々と伺って楽園を後にしました。
ああ、おいしかった。

折しも次の日、実家からは瑞々しい梨が山のように届き、呑みに行った居酒屋からはりんごと柿とみかんをもらい、狭い部屋の中はいま秋の香りでいっぱいです。
それを嗅ぎつけたのかどうか、大きなスズメバチが窓から入り込んで来たのにはちょっと困りましたが(苦笑)

本日の一枚
こちらはワイン用に栽培されているコンコード種の棚。
ぶどう棚の下はなんだか秘密の隠れ家みたいで、ちょっと身を屈ませなきゃいけないところなんかますますそれっぽく、うろうろ歩き回っているだけでワクワクしてきます。
実はぶどう狩りというのはこれが初めてだったのですが、観光果樹園のイメージにあったプラスチックの白いテーブルセットやバーベキュー用のビニールシートなどはもちろんなく(笑)、静かな広い棚の下は、古いぶどうの樹と棚の支柱だけが規則正しく緑の床と天井をつないでいる、なんだかとても不思議な空間でした。

葉っぱの間から見上げる雲は、もう秋の隊列を組み始めています。
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2005/9/17

月光浴  

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会社からの帰りはたいてい真夜中なのですが、そんな時間でもときおりものすごく綺麗な青空を見ることがあります。
もちろん本当に夜の空が青いわけではなく、月明かりに照らされて浮かび上がった雲とのコントラストから、昼間見上げる空の色を連想してしまうだけなのですが。

以前、花巻のイギリス海岸近くの河原でキャンプしたときにも、真夜中にすごい青空を見ました。
まぶしいくらいに明るい月が昇った真っ青な空に、真っ白な大きな雲。
土手から河原へと降りるコンクリート階段の、その中ほどの広い踊り場が月明かりの中に青白く浮かび上がり、どこからかスポットライトが当たって舞台でも始まるのじゃないかと思えるような凛とした空気を、テントから這い出してドキドキしながら感じた覚えがあります。
大好きな宮沢賢治の作品に出てくる風景を見たくて出掛けた旅の途中の、まさに夢のような夜でした : )

本日の一枚
よく晴れた晩に山麓線あたりから眺める安曇野もとても綺麗です。
どんなに明るい月も、そのやわらかな光は影の中のものを僕たちの目から隠しません。
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2005/9/4

平らな鏡  

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なかなか自分の思う通りにはいかないと解っていても、やっぱりモノをつくる仕事が好きです。

その理想と現実の狭間にある大きな河に落っこちて早十数年。
あたまを上流に向けてどんぶらこと流れて行きながら、ちょっとずつ手や足を動かしてなんとかあっちの岸へ近づこうともがく毎日です。
時には自分の力ではどうしようもない不条理な流れに巻き込まれて、がぼがぼ水なんか飲んじゃってもうこのまま溺れちゃってもいいやとか思ったりもするのですが、そんなとき僕の中で精神的なバランスをとってくれているのは、こうしたつたない文章とか写真とか絵のような、とてもプライベートな、自分にとって本当に自由なモノづくりであると感じます。

僕にとって、自由にモノをつくるということは、平らな鏡を見るようなものかと思います。
一日の半分以上の時間を費やしているいまの仕事であるとか、上司や同僚や遊び友達や、最近では顔も知らないネット仲間とのコミュニケーションであるとか、もちろんそういったものも自分を映す鏡にはなるのですが、それらは必ずしも平滑ではなくて、いろんなところがふくらんでいたりヘコんでいたり曲がっていたり、時には曇っていたりヒビ割れていたりしています。
自分が本当の自分よりも大きく見えたり小さく見えたり、凛々しかったり醜くかったり、太っていたりスリムだったりと、見ている方も結構大変です。
一喜一憂しながらどんなに必死になって鏡を覗き込んでも、鏡が自分を見るほどには、正しい姿が見えてこないように思えます。

あるがままの自分を見るためには、そのままの自分を映してくれる平らな鏡が必要です。
少ない語彙から言葉を選びながら何かを綴ったり、ふと目に留まったものをカメラに収めたり、どうまとめるともなく大きな紙に絵を描きはじめてみたり。
スケジュールもスペックもない、そんなモノづくりをしてみると、なんとなくその中に自分の姿が見えてくるような気がします。

もちろん、何かをつくるということだけではなくて、自分を人当たりの良い姿カタチに吊り下げてくれているつまらない見栄とか意地とか周囲とのしがらみとか、そうしたものから自分を切り離すことができれば、どんなことでも鏡になるのだと思います。
自分が素直に、正直になれるもの。
たとえば映画を観てドキドキしているとき。本を読んで泣いているとき。音楽を聴きながら静かな心持ちのとき。
バイクで落ち葉の上をカサカサと走っているとき。カヤックやボードで水の境目に浮かんでいるとき。
感じる気持ちや口をついて出る言葉は、平らな鏡に映った自分なのだと思います。
時々はそうやって自分を何かに映してじっくり眺めながら、ぷよぷよしてきた脇腹をつまんでみたり、眉間に寄ってるシワをほぐしたりしないとね。
ちょっと勇気が要りますけど : )

しかし、決して平らでないとはいえ、仕事でのモノ造りも僕にとっては大きな鏡です。
この一年間携わってきた仕事は、その課題や手法の新しさから少なからず問題もあり、僕にとってはどこか曇った鏡でした。
ただ、ひと区切りがついたいま、少し落ち着いて鏡を拭いてみると、そこに映っていた僕もまた、勉強不足を棚に上げて不平不満ばかりを並べ立てる自分勝手な気分屋であったように思えます。
これからいろんな反省や提案を盛り込んで、この大きくて、ほんの片隅にしか自分の顔が映らない鏡もまた手の届く限り磨き上げていけたらと。

本日の一枚
例外として、女の子のカタチをした鏡というのは、平らじゃなくてもついつい我を忘れて覗き込んでしまいますね。
鏡としての造形美を愛でるのはもちろんですが :) そこに映った自分を見ては悦に入ったり落ち込んだり。
性懲りもなく(笑)
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