2007/3/31
18世紀になるとプロテスタントの特権階級(アイリッシュ・プロテスタント)の間でアイルランド人としての意識が芽生え始めた。さらに1775年に勃発したアメリカ独立戦争の対処に追われた英国は、アイルランドに対して強硬策がとれなくなった。
こうした中、ヘンリー・グラタンにより率いられた党派は、英国との貿易不均衡の改善やアイルランド議会の尊重を訴え、1782年事実上立法権を回復させるなどアイルランド議会の地位を向上させた。こうしたことから、この時期の議会はグラタン議会とも称される。
しかしながら、アイルランド人の結束が一枚岩であったわけではない。当時のアイルランド議会はプロテスタント系地主が中心であり、多くの人々はカトリック教徒の政治参加など一層の議会改革を求めていた。
1789年にフランス革命が勃発すると、アイルランドにおいてフランス革命政権との連携を通じて急進的改革を図ろうとする動きも見られ、革命の波及を恐れた英首相ウィリアム・ピットまでが、カトリック教徒の政治参加に理解を示す妥協的姿勢をみせた。
こうして、アイルランド議会のプロテスタント勢力は孤立し、英国への完全併合をむしろ必要とするようになった。一方1791年にはウルフ・トーンによって、信教の自由と英国支配からの独立を掲げるユナイテッド・アイリッシュメンが設立された。この活動は1798年の武装蜂起となり、ナポレオンに派遣されたフランスの援軍があったにもかかわらず、英国軍により鎮圧された。
アイルランドで高まったフランス革命への共感は、フランスと対立する英国政府の大きな懸念材料となり、その解決策としてアイルランド併合が指向された。カトリック教徒解放という公約を示した上で、1800年に英国議会とアイルランド議会で連合法が可決され、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が建国され、アイルランドは国外植民地としての自主性も失い、完全に英国に併合された。
そして、アイルランドは英国議会に32名の上院議員と100名の下院議員を送り込むことになった。しかし、国王ジョージ3世の強硬な反対などもありカトリック教徒解放の公約は留保され続けた。
結局、アイルランドの地位向上はナポレオン戦争の終結後となった。1823年、弁護士のダニエル・オコンネルはカトリックの解放連動を展開。各地で運動が起き、1829年に平和的にカトリック解放法が勝ち取られた。
英国に完全に併合されたとはいっても、実際はそれ以前からイングランド国王がアイルランド国王を兼任していたため植民地であることには変わりなかったが、形式上連合王国の一員となったことでさらなる英国への同化圧力が加えられることになった。
アイルランドの議員たちは大半をロンドンで過ごさねばならず、アイルランドを離れてイングランドで暮らす不在地主になり、商工業も急速に衰退した。現在アイルランド共和国を構成する地域は産業革命もほとんど起こらず、不在地主制の下で貧しい農業経済に甘んじていた。英国との併合は、かえってアイルランドの経済や社会に惨たんたる結果をもたらすこととなった。
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