2007/6/25
9 オーストラリアン・ルールズの全豪的な熱狂
ところが、拡大されたAFLのなかで、しだいにヴィクトリア勢以外のチームがAFLの覇権争いに加わり始めた。これが、オージールールズの全豪的な熱狂の契機となった。ウェスト・コースト・イーグルズは1992年に初めて、94年には二度目に、AFLの覇権をヴィクトリア州から奪った。相手はジロング・キャッツで、あのウィルズが創立した由緒あるクラブの一つである。イーグルズは2006年には3度目の優勝を飾っている。
1997年アデレイド・クロウズは人口100万強のアデレイド市民の半数が観戦し、しかも、新クラブのポート・アデレイドも年間39万415人が観戦したから、総人口が両クラブの試合に押し寄せたことになる。そして、両クラブのシーズン半ばの対戦を競技場とテレビで観た者が53万人だった。長年、ヴィクトリア州のクラブに優秀な選手を引き抜かれてきた南オーストラリア州民には、ヴィクトリア州への怨念があり、これがブームに拍車をかけた。その年、クロウズは初優勝を飾り、98年と連覇、一方のポート・アデレイドは2005年に初優勝を遂げた。
1990年代後半、ラグビーリーグは分裂騒ぎのため、膨大な数のファンが離れ、代わって他州への拡張期にあったAFL、特にメルボルンからシドニーに送り込まれていたスワンズが、ラグビーリーグの牙城シドニーでおびただしい数の観客を集めるようになっていた。スワンズは、2005年に初優勝を飾り、シドニーっ子を熱狂させた。ラグビーリーグのもう一つの牙城、クィーンズランド州のブリズベン・ライオンズは、2001〜3年まで三連覇を飾っている。
このように、1991年以降の16年間でヴィクトリア勢以外のチームがグランドファイナルを11回制し、最近3年間は、ヴィクトリア勢以外のチームで争われた。オーストラリアン・ルールズの人気は拡大の一途を辿り、2006年のプレミアシップ・シーズンだけで、総人口2000万人のうち延べ620万人、1試合平均35000人の観客を動員する。AFLは、米国型のクローズド・リーグで16チームは固定しており、ドラフト制とサラリーキャップ制もある。
オーストラリアン・ルールズのシーズンは、ウィルズのときから冬の競技であり、AFLのシーズンは、3月から9月、つまり、オーストラリアでは初秋から冬にあたる季節である。レギュラーシーズンにあたるプレミアシップ・シーズンは3月末から始まり9月の初めにかけて、16チームがホーム&アウェイ方式を基本に22試合戦う。ということは総当たり戦ではなく、長かった12チーム制のときの試合数を受け継いでいる。プレミアシップ・シーズンの上位8チームが、9月の4週間に渡って繰り広げられるプレイ・オフ、トヨタAFLファイナルシリーズに進出する。
トヨタAFLファイナルシリーズは、ホーム&アウェイ方式のトーナメントで、敗者復活戦が加味されているのが特徴で、AFLファイナル・システムと呼ばれる。ファイナル・シリーズを勝ち進んだ2チームが9月の最終土曜日にAFLの聖地、メルボルン・クリケット・グラウンドでグランドファイナルを戦う。2006年のファイナルシリーズでは、平均6万人、延べ54万人を超える観客を集めた。特に、イーグルズVSクロウズという非ヴィクトリア勢同士に試合にもかかわらず、メルボルンで行われたグランドファイナルには10万人近い人がつめかけた。
なお、近年、ヴィクトリア勢のチームは、1試合25万豪ドルの保証を受け、AFLのチームがないタスマニアのローセストン、ノーザンテリトリーのダーウィン、首都キャンベラやラグビーリーグの聖地であるシドニーとブリスベンでも試合を開催している。
参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店
http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/
http://en.wikipedia.org/wiki/Australian_Football_League

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2007/6/24
8 VFLからAFLへ
オーストラリアン・ルールズは、1859年から1877年の間は、ヴィクトリアのルールで行われ、1880年代まではヴィクトリアン・フットボール、もしくはメルボルン・フットボールとして知られていた。
1877年5月にはヴィクトリアの7つのクラブ、メルボルン、カールトン、セント・キルダ、ホサム、アルバート・パーク、ジロング、バーワンがゲームの振興をはかるためにヴィクトリアン・フットボール協会(VFA)を設立した。しかし、VFAのもとではチームの運営が経済的に困難になったため、クラブ8チーム(メルボルン、エッセンドン、ジロング、コリンウッド、サウス・メルボルン、フィッツロイ、カールトン、セント・キルダ)はVFAとの関係を絶ち、1897年ヴィクトリアン・フットボール・リーグ(VFL)を設立した。
VFLの目的は、試合をより商業的なものにすることであった。試合をスピーディーにするために様々なルールの改正を行った。このとき、人が密集し過ぎないようにチームの人数も20人から18人に減らされた。また、ボールをマークできる距離が延長され、キックの距離が飛躍的に拡大した。
VFA もこの後存続するが、ゲームの運営の主導権は完全にVFLに移り、南オーストラリア、西オーストラリアやタスマニアなどの州もVFLに従った。1906年にはオーストラリアン・ナショナル・フットボール会議(ANFC)が設立されるが、ANFCもその後作られた組織もVFLの管理下にあった。
最初の州間全国決勝戦は1908年に戦われ、本家本元のヴィクトリアが優勝した。選手の有給化は1911年。チーム単位の全国大会は1976年が最初で、やはりヴィクトリアのクラブ、ホーソーンが優勝した。
VFLは、1897年の創設8チームに、1908年リッチモンドとメルボルン大学が加わり、10チームとなる。メルボルン大学は1915年、第一次世界大戦による選手の入隊のためチームが解散、大戦後の1919年にチームは復興したがVFLには再加入することはなかった。1925年になるとウェスタン・ブルドッグス、ホーソーン、ノースメルボルンが参加し、12チームとなる。この体制が、1980年代まで続いた。
1980年代になると、テレビ時代を迎え、ヴィクトリア州メルボルンに止まっていたVFLを全豪化すべく、1982年にサウス・メルボルン・クラブ(愛称スワンズ)がシドニー・スワンズとしてニューサウスウェールズ州に進出した。1987年にはチーム数の拡大が行われ、クィーンズランドのブリスベン・ベアーズと西オーストラリアのウェスト・コースト・イーグルズが加わった。こうしてVFLは14チームに拡大し、1990年にはその名称をオーストラリアン・フットボール・リーグ(AFL)に改称した。
さらに1991年にはヴィクトリア州に次いでオージー・ルールズが盛んな南オーストラリアのアデレイド・クロウズが参加、1995年には西オーストラリアで二チーム目のフリーマントル・ドッカーズ、1997年には南オーストラリアで二チームめのポート・アデレイド・パワーが参加、また、この年、メルボルンにあったフィッツロイ・ライオンズがブリスベン・ベアーズと合併し、ブリスベン・ライオンズとなった。
現在のチーム数は16で、ヴィクトリア勢は10チームに落ち着いた。うち、メルボルンが9でジロングが1。他の6チームの内訳は南オーストラリア2、西オーストラリア2、クィーンズランド1、ニューサウスウェールズ1。こうみると全豪化といっても、ラグビー・リーグが盛んなクィーンランドとニューサウスウェールズは各1チームに止まっている、かのように思えた。
参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店
http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/
http://en.wikipedia.org/wiki/Australian_Football_League

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2007/6/23
7 オーストラリアン・ルールズ・フットボール
1850年代、この国最初のゴールドラッシュ時代に遡る。代表的金鉱地バララットとベンディゴーの金鉱夫らが気晴らしにフットボールをやっていたが、金鉱夫らは大半がアイルランド系だったので、ゲーリック・フットボールの趣があった。とにかくここに、オーストラリアン・ルールズの人気の元となる民族的な味付けが施されていた。ほとんどルールもなく、線引きもいい加減で、いかにもアイルランド風だった。
記録に残っている最初のゲームは、1858年、メルボルンのスコッチカレッジVSメルボルン・グラマースクールだった。後者は、オーストラリアで、一番権威のある私立学校で、マルカム・フレーザー初め何名かの首相もここを出ている。ルールと線引きのいい加減さは、ゴール間が1マイルも離れ、1チームの選手が40名だった点にも表れている。試合は延々3週間も続き、双方ヘトヘトになったあげく勝負なしという結果となった。この時点では、まだ、近代以前のフットボールと言っても良かった。
ところで、今日のオーストラリアン・ルールズを整備したのは、英国系だった。ヴィクトリア植民地へ冒険的な開拓入植を行った大牧場主の息子トーマス・ウィルズが英国屈指のパブリック・スクール、ラグビー校留学から帰国、「ラグビーは家業を持つおとなにはむりな競技だから」と従兄弟で義弟のヘンリー・ハリスンと1856年、ゲーリック・フットボールからはキックとマーキング(ハイジャンプでボールをとる)、ラグビーからはボールの形と肉弾相打つぶつかり合い、サッカーからは守備位置名を借用するなど、いわば各種フットボールの合成をやってのけた。
ウィルズらは、クリケットをやらない冬季のゲームとしてこれを開発したので、メルボルンと近郊のジロングに幾つかクラブを作らせて互いに試合を行ったが、場所はシーズンオフで使わないクリケット・グラウンドだった。このため、いまでも、オーストラリアン・ルールズは原則としてクリケット・グラウンドでプレーされる。ウィルズは、1859年、メルボルン・フットボール・クラブ(MFC)を作ってキャプテンに納まるが、このクラブは後に最も伝統のあるクラブとなり、デーモンズと呼ばれるようになる。
1チームは40人から20人に減り、今日では16〜18人、補欠2人、交替選手は試合に復帰できないことになった。1マイルも離れていたゴール間は、135〜185メートルになり、横幅は110〜155メートルになった。6.4メートル間隔で立つゴールポストは、高さ6メートル、それぞれから6.4メートル後ろに、より低いビハインド・ポストが立つ。ゴール・ポストが6点、ビハインドは1点である。
延々、3週間も戦ったこの競技も、100分を四つに区分、25分ずつ連続プレーを小休止を挟んで4回と定められた。また、家族持ちにはむりというウィルズの意向が残って、危険極まりないスクラム、ラインアウト、オフサイドはない。
一番の見所は、主にフルフォワードがみせるハイジャンプで、これを「フライング・フォア・マークス」という。これはゲーリックフットボールから借用した特徴である。ラグビー選手らはこれを見て、「空中ピンポン」と嘲ったが、スペクタクル的な大技はテレビ時代にうってつけで、タイトルには「アンド・ザ・ビッグ・メン・フライ」という文句が使われた。
参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店

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