2007/6/5
6 GAAとクロークパーク
GAAは、1884年アイルランドの伝統的な娯楽(pastime)=ゲーリックゲームスを守るため、ティぺラリー州のサールスで設立された。翌1885年ゲーリック・フットボールとハーリングのルールが作られ、1887年に初のゲーリック・フットボールとハーリングのオールアイルランド大会が行なわれた。GAAは、驚くべき人気となり、アイルランドの全ての教区でまもなく設立された。
2004年の年次レポートによれば、GAAは、北アイルランドの6州を含めた32カウンティに大小2597クラブ(2003年現在)を擁している。GAAは、基本的には教区に根ざした各クラブによって成り立っており、さらにそこから選抜された選手は、カウンティの代表となり、プロバンス大会、さらにはオールアイルランドのチャンピオンシップをかけて戦う。
ゲーリック・フットボールやハーリングのオールアイルランド大会は開催中の夏の数ヶ月に大勢の観客を動員し、アイルランドのスポーツシーズンのハイライトであるダブリンのクロークパークで行われる決勝は8万3千人の大観衆で最高潮に達する。
クロークパークは、ゲーリック・ゲームの専用競技場で、1913年開場の伝統ある競技場だが、1990年代に入ってから大規模な増築工事が繰り返され、ヨーロッパ有数の巨大スタジアムへと変貌した。クロークパークには、GAAの本部と博物館が併設され、博物館ではゲーリック・フットボールやハーリングの歴史的品々の展示や、ゲーリック・ゲームのアイルランドの歴史に果たした役割などを紹介する記録映像などが流され、まさにアイルランドの聖地である。
クロークパークは、原則としてアイルランドの伝統競技であるゲーリック・ゲームのみしか許されていなかったが、GAAは、長い協議の結果、2005年サッカーとラグビーのスタジアムであるランズダウンロードが改修される間ではあるが、サッカーとラグビーのプレーを認めた。
GAAは、単なる競技団体ではなかった。GAAは特定の政治団体を支持することはなかったが、その始まりからナショナリストの組織であった。GAAは、アイルランドの伝統的な娯楽(pastime)を守るための組織として設立されたが、その根底にあるのは、生活における非英国化を目指したものであった。設立当初から、外国(即ち英国)のゲームとして定義するもの(ラグビー、サッカー、ホッケー、クリケット)をする人間を破門したり、これらのゲームを行ったり観戦することさえもGAAからの除名を招いた。
GAAは、アイルランドのナショナリズムと強く結びついていたため、1918年英国政府はゲーリックゲームの聖地であるクロークパークでの国際試合の開催を禁じた。クロークパークがゲーリックゲームの聖地となったのは、単にゲーリックゲーム専用競技場だったからではなかった。
1920年11月21日の日曜日、クロークパークでゲーリック・フットボールの試合が始まった直後に英国の武装グループ「ブラックアンドタンズ」が小型飛行機でスタジアムの上空から1万人の観客と試合中の選手に向かって発砲した。
英国とアイルランドの自治をめぐるゲリラ戦の報復による「血の日曜日事件」が、10才の子供を含む観客11名とティペラリーチームのマイケル・ホーガン選手の命が奪われ多くの負傷者を出した。この事件は両国の紛争をさらに激化させ、この後の独立や内戦にも影響を与えることとなった。スタジアムには「ホーガンスタンド」と名付けられたスタンドがある。
参考文献 アイルランドにおけるスポーツ−ゲーリック・アスレティック・アソシエーションを例に−坂なつこ
「図説 アイルランドの歴史」リチャード・キレーン著 鈴木良平訳 彩流社
「概説イギリス史」青山吉信・今井宏編 有斐閣選書
「500年前のラグビーから学ぶ」杉谷健一郎著 文芸社
参考サイト
http://www.globe.co.jp/information/history/history-3.html#hi10

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