2007/8/31
参考資料J オーストラレイジアにおいて、サッカーがラグビーに遅れをとった理由
こうしてみると、19世紀後半、イングランドの労働者や一般大衆の間では、サッカーよりもラグビーの人気が高かった。少なくともイングランドの北部ではそうだった。当時のイングランド北部は、18世紀後半から続く産業革命により、石炭業、鉄鋼業、造船業などが発達しマンチェスター、リヴァプール、リーズ、ヨークなど英国屈指の工業地帯として大英帝国の繁栄を支えていた。また、労働者として地方やスコットランドから、多くの人口が流入し、イングランドで最も人口密度が高い地域となっていた。
農村部から流入してきた彼らは、産業革命により、前近代的な奉公人ではなく、規格化され専門化した近代的な労働者階級へと生まれ変わっていた。同じことが、フットボールにも起きた。農村社会にみられたルールらしいルールもない粗暴な民俗フットボールは、農村社会の喪失とともに消え去り、工業社会の誕生とともに、規格化され、専門化した近代フットボール、ラグビーとサッカーへと生まれ変わった。
では、なぜ、イングランド北部の工場労働者は、サッカーよりもラグビーを好んだのだろうか。考えられるのは、まず、手を使い人々がぶつかり合う荒々しい民俗フットボールの伝統がまだ労働者階級の間に残っており、手を使いコンタクト・プレーが多いラグビーの方が、手を使わずコンタクト・プレーが少ないサッカーよりも受け入れやすかったのではないだろうか。
また、イングランド北部の工場経営者の多くが中産階級で占められ、中産階級の子弟が多かったラグビー校出身者が、早くからマンチェスターやリヴァプールでラグビー・クラブを創立しており、サッカーよりもラグビーの方が普及が早かったとも考えられる。
ラグビー人気が高かったこの時代に、オーストラリアやニュージーランドにフットボールが伝わっており、このことが、オーストレイジア(オーストラリアとニュージーランド)において、サッカーがラグビーに遅れをとった理由かもしれない。

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2007/8/27
参考I サッカーとプロ化
実はこの北部チームのプロ化に影響を与えたのはサッカーである。FAも発足当時は、RFU同様にパブリック・スクール出身のエリートが上層部を牽引していた。当然、RFUと同じく「アマチュアリズムこそ正義」という固定観念が確立されていた。しかし、発端はやはりイングランド北部からである。
北部のサッカー・クラブでも競技をすることにより日給が支払われるシステムが一般化していた。これは、この地域では人気のあったラグビーに選手を取られ、選手の絶対数の不足に悩んでいたサッカー・クラブが、報酬を払ってスコットランド人サッカー選手を「助っ人」として雇っていたという背景がある。
なぜスコット人かというと、彼らもスコットランドのボーダー地方ではやはり台頭するラグビーにより、競技生活の場を失っていたからである。その後もボーダー地方からの選手の流出は止まらず、その影響で現在でもこの地域はラグビーの方がサッカーよりも優勢というヨーロッパでは特異な地域になっている。
1884年FAは、北部のあるチームをプロ選手であるという認識を持ちながら当該選手を出場させたという理由で、FAカップから追放する。この処分に対して、同チームはもちろん、他の北部チームも激怒し、一時期は集団でFA脱退という最悪のシナリオになりかけた。最終的にFAが折れ、1885年FAはプロフェッショナルを承認する旨を競技規定に追加する。
この事件以降、FAはプロ化の道を邁進し、サッカーは世界一競技人口の多い人気スポーツへと発展する。確かにサッカーは、適当なスペースと球さえあればどこでもできる。ラグビーと比較するとコンタクト・プレーも少なく激しいケガも少ない。体格もラグビーに比べるとほとんど影響しない。サッカーにはそのようなアドバンテージとなる点も多いが、サッカーにはプロ化がサッカーの競技人口を低所得者層まで拡大したと言っても過言ではない。
出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

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2007/8/26
参考H ユニオンとリーグとの分離
1880年代になると、ラグビーが全英各地に普及し、上流階級だけでなく労働者階級を含めたあらゆる階層が競技を行える環境が整えつつあった。特に工業地帯であったイングランド北部のヨークシャー近辺では、工場、炭坑に勤める労働者クラスにラグビーが受け入れられクラブ・チームの数が急速に増加する。選手だけでなく、1試合当たりの観客動員数も多く1万人を超えた試合も少なくなく、これは当時としては国際試合にも記録がないくらいの大きな数字であった。このことから北部地域全体にラグビーがいかいに一般大衆に定着していたか理解できる。
1880年代前半より、北部では試合毎の休業補償を供与していた。例えば多くの北部チームに在籍していた炭鉱労働者は試合ある土曜日は午後1時まで仕事に従事しなければならない。それもホームであればよいが、アウェイであれば時間的に試合に参加することができない。従って試合にベストメンバーを揃えるために休業補償制度が確立したのである。また、北部のラグビーは民俗フットボールに逆戻りしたかのように粗暴だったため、試合中のケガによる休職が日常茶飯事であり、弱い立場にあった労働者選手の救援策でもあった。さらに、当時イングランド南部のクラブが金銭による引き抜きを始めたことも影響している。
当初は、RFUも当時高い技術レベルでイングランド・ラグビーを牽引していた北部ラグビーを刺激しないため、休業補償制度を黙認していたが、当時のRFUの上層部、管理部門はパブリック・スクール出身のエリートが占めており、アマチュアリズムが一種の信仰のように尊ばれ、スポーツで金(カネ)を得るという行為は最低なこととさ、ケガのための休業補償と言えども容認できる雰囲気ではなかった。1886年RFUは、最終的にこの北部での習慣を抑止するためアマチュアリズムを固守する、つまりラグビーを通じた金銭の受け渡しを禁止する規定を施行する。
1887、88年に北部側の主張が有利になる事件が起きる。1887年に名門ブラックヒースがブラッドフォードとの試合で選手1人当たり4ポンドの試合給金を受け取った。翌88年には、現在のライオンズに相当するブリティッシュ・マイルズが初めてオーストラリア、ニュージーランドに遠征した。しかし、その遠征メンバー全員がそのツアーを裏で画策していた企業家から、選手全員にユニフォームや給与が贈られていた。
この一連の事件に対し、アマチュア規定施行後、選手の流出が続いていた北部側は憤慨し、RFUに強く抗議する。1893年北部側は、RFU会議に休業補償制度を公式に承認してくれるよう多数決による決裁を求めた。結果的にその提案は「プロフェッショナルに通じる」という理由で否決された。
これに対し、北部側の代表は「フットボールはパブリック・スクールや上流階級だけの娯楽ではない。フットボールはこの工業地帯の偉大な労働者たちを含む一般大衆のスポーツとなっている。パブリック・スクール出身の人間が提唱する「アマチュアリズム」を労働者階級が実践することは難しい。労働者階級は休業補償なしでフットボールを続けなければならないことは極めて不公平である。」とコメントした。確かに、一部の富裕層は無給で休職・休業してもなんら問題はないが、当時時給ベースであた労働者階級からすると生活の糧が無くなり死活問題であった。
そして、1895年8月ハダースフィールドのジョージホテルにおいて、ヨークシャー、ランカシャーなど北部地域にある21の主要クラブがRFUを脱退し、新たな北部協会(ノーザン・ユニオン;NU)、後のラグビー・リーグになる組織を設立した。その後、イングランド北部を中心に250以上のクラブがNUに同調しRFUを脱退した。ラグビー・リーグによれば、北部リーグに所属するチームは1904年にはRFUに所属するチームよりも多くなったとされる。
NUは、その後北部数チームにより開発されていた13人制ルールをさらに改良し、よりスピーディーな試合展開ができるようにスクラム、ラインアウト、モール・ラックなどプレーが止まる要素を極力削った。ユニオンで禁止されている派手な色・デザインのジャージなども積極的に着用する。
このように選手が楽しむだけでなく、観客に「見せるプロ競技」を創り、イングランド北部を中心に急速にファン層を拡大し、1922年NUはラグビー・リーグと名称を改称し、ユニオンと同じく英連邦を中心に世界へと広がっていく。その後、ユニオンとリーグは絶縁状態が続き、再び交流が始まるのは1995年、ユニオンのプロ化以降のことである。
出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

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2007/8/25
参考G サッカーとラグビーの誕生
さて、フットボールが普及したこと自体はよいが、一つ問題が提議される。ケンブリッジ大学と同じく統一ルールがないため、毎回、試合前には両チームのルール調整が必要であった。既にこの時代は鉄道網が英国中に敷かれ、各地区からの移動が比較的容易になってきており、当然、遠隔地にあるチームとの試合が組めるような状況に進歩したのである。
1863年にロンドン近郊の11の地域、学校、職場のクラブ・チームが市内のレストランに集まり、フットボール競技を統括する母体組織の設立と統一ルールの策定についての話し合いが行われた。そして、その場でフットボール・アソシエーション(FA)の設立を決定する。
組織が決まれば、次は統一ルールである。元々11チーム中、ラグビー校式ルールを支持していたのはブラックヒースのみであったが、当初は、ランニング・イン、ハッキングなどのラグビーの特徴とする規定は大方認められていた。しかし、参考資料として「ケンブリッジ・ルール」が会議に提出されると、会議に参加していた多くのクラブの代表がこのルールを基盤に統一ルールを作成する意向を示す。
ケンブリッジ・ルールは手にボールを持って走ることを禁じており、ハッキングは反則である。ブラックヒース代表がこの採決に際し異議に及んだのは当然であるが、結果的にはケンブリッジ・ルールを基本とするルールが採択される。そして、ブラックヒース代表は、「ハッキングを廃止すれば、ゲームにおける勇気と面白みをなくしてしまう」という言葉を残し、会議から退席し、ブラックヒースはその後FAから正式に脱退する。
この日、ローマ帝国時代から数えると2000年以上「フットボール」という器の中で共存してきたラグビーとサッカーは分離し、その後、交わることなくそれぞれの発展を遂げていくのである。
一方、団結したFAに対し、少し取り残された感じのするラグビーであるが、その後もブラックヒースが中心となり賛同する約50のクラブ・チームがラグビー校式ルールで競技を続けた。しかし、1845年にラグビー校にて策定されたラグビー・ルールは、競技の詳細な部分まで規定しておらず、各チームは他チームとの他流試合ではその時点でも独自のルールをお互い事前調整し試合に臨んだ。しかし、ラグビーのようなコンタクト・プレーを伴う競技を行うに際してルールの解釈が違うことは相当の危険を伴った。
1870年にリッチモンドの選手が練習試合で死亡したのをきっかけにラグビー・クラブ間においてもその統括・管理団体と統一ルールの必要性が論じられるようになる。1871年、FAルールとは別の統一ルールをラグビー校式ルールの支持クラブで作成するため、21チームの代表がロンドンのペルメル街のレストランに参集した。
その場でFAに遅れること8年にしてラグビー・フットボール・ユニオン(RFU)の設立が決定され、半年後59条からなる統一ルールの草案が完成し採択された。意外なことにその統一ルールでは、ブラックヒースが FA設立の場であれほど主張したハッキングは禁止されていた。
ラグビーの試合中に死亡事故が発生し、その安全性が問われ始めていたからである。なかでもハッキングはケガの原因となることが多く、特に成長期における選手の脛周辺の骨折は、その後障害が残るとの指摘が医学界からもあり、世論の圧力も徐々に強まっていた。結果的には、ブラックヒースもラグビー継続、そして発展のためやむを得ないとハッキングの禁止に賛同する。こうして、ラグビーは再びラグビーと同じ土俵に乗ることになった。
出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

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2007/8/18
参考F クラブの出現
1850年代から60年代、この時期には鉄道を始めとする交通機関が発達したこともあり、フットボールはパブリック・スクールや大学を卒業した人たちによって全英各地に広められ、各地の地方都市では学校以外でも地域、職場、教会のクラブチームが設立され、急速に一般大衆レベルまで競技が普及する。民俗フットボールの時代以来、競技が少し形を変えて、一般大衆の元に回帰してきた。
この時期は、いわゆる第二次産業革命とも言われ、産業が紡績などの軽工業から重工業に移行する時期で、労働者の労働条件は劣悪なものがあった。しかし、余暇に行うスポーツという概念が人々に徐々に芽生え、それまで基本的に富裕層のものだったフットボールが大衆レベルに浸透し始める。
1843年、ロンドンにある医療学校ガイ・ホスピタルに世界で最初のフットボール・クラブが設立されたが、このクラブはラグビー校式のフットボールを行う職場のクラブだった。1854年には、アイルランドにあるダブリン大学で世界最初の大学フットボール・クラブが設立されているが、これもラグビー・クラブであった。
その後、1858年ブラックヒース、リヴァプール、1860年マンチェスター、1861年リッチモンドと、地域のラグビー・クラブが続々と設立され、1864年のブラックヒースとリッチモンドによる試合が現存するラグビー・クラブが行った最古の公式試合とされている。
また、初期のラグビー・クラブで中心的な役割を担ったのが、現存する最古のラグビー・クラブと言われるブラックヒースであった。ブラックヒースは、ロンドン南東部にあったブラックヒース職業学校の卒業生と地元の住人たちによって結成された。このクラブは、11条からなる独自のルールに則ったフットボールをしていたが、これはラグビー校のフットボールに類似したものであった。
ルールの10条では、スクラムの中で相手選手の首を絞めることが禁止されていたが、わざわざこのようなプレーを禁止するということ自体、このクラブのフットボールがかなり荒っぽいことを示している。ハッキングは、背後からのもの、膝から上へのもの、またボールを持っていない選手に対するものは禁止されていたが、それ以外は認められていた。この点からもブラックヒースのフットボールが相当乱暴なものであったことが分かる。そして、この点が、後のフットボール・アソシエーション設立の際に大きな問題となる。
一方、ハロー校やイートン校やケンブリッジ大学の系統に属するフットボール、つまり、ランニング・インを認めないタイプのフットボールを行うクラブでは、1857年にシェフィールド・クラブが設立されたが、このクラブは、パブリック・スクールや大学と直接の関係を持たずに作られた最初のクラブとされ、また、シェフィールド・ルールと呼ばれる独自のルールを作ったことでも知られている。
11条からなるシェフィールド・ルールは、ハッキングとランニング・インを禁止しており、明らかにラグビー校式のフットボールとは対立するものであったが、ボールを手で叩いたり押しながら前に進めていくことは認められていた。
ロンドンでは、1860年ハロー校の卒業生によりフォレスト・クラブが設立され、1862年に設立されたバーンズ・クラブとよく試合をした。1861年には、クリスタル・パレスというクラブが設立されたが、これは、1851年の万博でハイドパークに建設され、その後、ロンドン南郊シグナムに移築された水晶宮(クリスタル・パレス)の従業員が作ったクラブである。
出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書
「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社
ところで、フットボール・クラブの設立年の確認のために利用したウィキペディアの「最古のフットボール」の一覧表をみれば分かるように、オーストラリアン・ルールズ・フットボールを行うメルボルン・フットボール・クラブが1858年に設立されているが、このクラブは世界最古のフットボールに数えられるものであり、オーストラリアン・ルールズの先駆性は評価されるべきである。その後、1859年にはジロング、メルボルン大学、1860年には金鉱で有名なバララットと、オーストラリアン・ルールズのクラブが続々と設立されていった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Oldest_football_club

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