2007/3/19
3月17日は、聖パトリックデー。アイルランドにキリスト教を伝えた聖人・聖パトリックの命日で、 カトリックにおける祭日であり、アイルランドの祝祭日。聖パトリック・デーのメイン・イベントといえば、各都市で行われる大パレード。シャムロック(三つ葉の植物)を服につけたり、緑色の物を身につけて祝う日で、「緑の日」とも呼ばれる。アイルランド系やカトリック教徒以外の者も参加することが多い。北米のニューヨークやボストン、豪州の各都市など、アイルランド系移民の多い地域・都市で盛大に祝われる。
メジャーリーグではこの日には特製の緑色のユニホームあるいはキャップを使用する。
≪赤から緑に変身≫17日はアイルランドの祭日「聖パトリック・デー」で、レ軍は緑の帽子とユニホームを着用した。アイルランド系住民が多いボストンを本拠地にするレ軍は、90年に当時のエースだったクレメンスが全員に緑の帽子を買って渡したのが始まりとされる。松坂は「日本にいたときから見ていたし、一度着てみたかった」と話し、うれしそうにオープン戦をベンチで観戦したが、岡島は「ミドリムシみたいでしたね」と話して爆笑を誘った。4月12日のマリナーズ戦でも同ユニホームを着用する予定。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/major/archive/news/2007/03/19/20070319spn00m050010000c.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070318-05100907-jijp-spo.view-001
http://sports.yahoo.co.jp/news/20070319-00000010-sanspo-spo.html
最近は日本でも、各地でパレードなどが行われるようになった。3月10日(土)は横浜元町、3月18日(日)には東京・原宿でパレードがあり、緑色の物を身につけた人たちでにぎわった。
http://www.inj.or.jp/stpatrick.html
聖パトリック・デーの当日は、横浜カントリー&アスレチッククラブ(YC&AC)で、アイリッシュ・スポーツ・デー2007も開催され、サッカーのほか、アイルランドの伝統スポーツのゲーリック・フットボールやハーリングが行われた。
うーん、見に行けば良かった。残念・・・。

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2007/3/9
「足と脚のフットボール」
ラグビーは手を使うのになんでフットボールというのか。英国においてフットボールとは、掌サイズのボールを掌で1対1か2対2で、打ち合うハンドボールに対比した言葉で、大勢の人々が、両手で持つ大きなボールを足と脚を使って相手ゴールに入れるゲームのこと。
19世紀後半にゴム製の中空ボールが出現するまでは、両手サイズの大きなボールは、牛や馬の膀胱を乾燥して膨らましたものに表皮を覆ったもので、形は楕円球で、第一に弾力性に乏しかった。このため、ボールの弾力を使ったバスケットボールのようなプレーはそもそも期待ができなかったし、蹴ってもそんなに遠くには飛ばなかった。自然と密集した中で、ボールを手に持って走る(ランニング)か、ボールを足で蹴る(キッキング)のがプレーの中心となった。
19世紀はじめまで、フットボールは民衆のスポーツであった。マスフットボールとか原始フットボールとも言われる時期で、人数やエリア、時間の制限はなく、大概は教会の教区を二分し、あらかじめ定められたゴールにボールをどちらのチームが早く入れられるかというもので、1点いれればそれで終わる、いわば、地域の祭りであった。
19世紀前半、産業革命の発展によって、民衆は労働者となり、民衆のフットボールは消滅する。替わって、新たな支配階級となったブルジョアジーの養成学校となったパブリックスクールで、心身の鍛練のために、フットボールが採用され、19世紀半ばにかけ、パブリックスクールのフットボールへと変わっていく。
ギリシア・ローマ文明の継承者として文明人の仲間入りをした大陸ヨーロッパ諸国に対し、英国はアングロサクソン・ノルマン以来のバーバリアンの伝統を保った国であり、フットボールにはバーバリアンの暴力の伝統が生きていた。パブリックスクールのフットボールは、この暴力性を理性(ルール)によっていかに克服(コントロール)するかという心身の鍛練のツールとして採用され、次第に近代スポーツへと変貌していった。
足と脚のフットボールは、近代スポーツ化の中で、キッキング派とランニング派に分かれていく。キッキング派は、密集でのプレーは危険であり、密集を作らないため、ランニングプレーの排除を求めた。これに対し、バーバリアンの伝統を重視するランニング派は、これを拒否し、フットボールはサッカーとラグビーへと分化していく。
その後、密集プレーを排除しノン・コンタクトゲームとなったサッカーは、世界のスポーツとなったが、バーバリアンの伝統を引き継ぐラグビーが盛んな国は、英米(アングロサクソン)諸国に限定される結果となった。さらに面白いのが、ランニング重視のフットボールは、同じ英米諸国といっても、各国独自の歴史と国民性を反映したフットボールがあるのが興味深い。
もちろん米国にはアメリカン・フットボールがあり、それに似たカナディアン・フットボールがカナダにはある。アイルランドには、サッカーとラグビーの中間ともいえるゲーリック・フットボールがあり、これに似たオージーフットボールが、オーストラリアにある。オージーフットボールの方が先にルールが整備されたが、あまりに似すぎていることから、メルボルンにアイルランド系移民が多かったことから、彼らの母国で行われていたフットボールを基に発達したと言われている。
なお、本家のラグビー(ユニオン)は、プロ化を巡って、プロ側が脱退し結局、15人制のユニオン・ラグビーと13人制のリーグ・ラグビーに分かれた。

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2007/3/4
欧米か(2)
なんで欧米を英米と大陸欧州に二分する話をするのかといえば、近代スポーツを考えるとき、不可欠だからである。近代スポーツは、英国で誕生し、多くのスポーツが英国と米国で生まれた。主なボールゲームだけをみても、クリケット・ゴルフ・サッカー・ラグビー・テニス・ホッケーは英国産であり、ベースボール・アメリカンフットボール・バスケットボール・バレーボールは米国産である。因みに、アイスホッケーはカナダ産。
これに対し、大陸欧州産のボールゲームは、デンマークとドイツで生まれたハンドボールぐらいである。ただし、近代スポーツは英国で生まれたといっても、その多くは大陸欧州から伝えられた言われている。近代テニスは、ローン・テニスといわれ、芝生のコートで行うゲームとして、19世紀後半に誕生したが、起源は、フランスのジュ・ド・ポームという掌でひとつのボールを打ち合うゲームで、教会の中庭で盛んに行われていた。いまでも、全英(ウィンブルドン)は芝生だが、全仏は土のコートである。
サッカーやラグビーのルーツであるフットボールに似たゲームは、中世(大陸)ヨーロッパの各地にあり、それが英国に伝わったともいわれる。また、カルチョというラグビーに似たゲームがいまでも、イタリア・フィレンツェで行われており、サッカー発祥の地はイタリアだと、地元イタリアでは信じられている(?)。さらに、クリケットという言葉は、フランス語のボールを打つ棒(クリケ、クリッケ)に由来するとも言われている。
しかしながら、近代スポーツとしてのテニス、サッカー・ラグビー、クリケットは英国産には違いないのである。近代スポーツの成立条件(スポーツの近代化)とは、全国統一ルール、全国組織、全国大会とされるが、これには国民国家の成立と産業革命という条件が必要だった。全国の単位は国であり、国という単位がなければ、一地方のスポーツで終わってしまう。
産業革命は単なる工業だけの革命ではなく、情報革命(新聞)や交通革命(鉄道)をともなっていた。新聞や鉄道の普及無くしては、ルールの統一化や全国的な組織の維持と全国大会の実現は困難であった。鉄道網の普及は、対外試合を増加させ、ルール統一化の機運を高め、ルールの統一は競技の普及を促進させた。新聞の普及も、スポーツの近代化に貢献した。新聞が前日の試合結果を、載せることにより、誰もが、試合を見なくてもその結果を知ることができるようになり、ルールの周知と競技への関心を高める結果となった。
国民国家の成立と産業革命が英米で先行したことが、英米で多くの近代スポーツが誕生した理由かもしれないが、英米で誕生した近代スポーツの多くが、未だに普及が英米中心で、世界的に普及していない点を見過ごしてはならない。英国で生まれたクリケットやラグビーが盛んな国は、未だに旧英連邦諸国が中心であり、米国で生まれたベースボールとアメリカン・フットボールが盛んな国は、米国の周辺国に限られている。
それはなぜか、近代スポーツとしてルールが洗練化されても、競技自体が、近代化以前から存在した民衆や特権階級のスポーツを起源とし、その国の土着的な風土や文化の中から生まれてきたものにおいては、競技自体に土着性が包含されているからではないか、と推察される。 (つづく)

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2007/2/26
欧米か
「欧米か」という突っ込みがタカandトシのギャグで流行っているが、「欧米か」といわれると、思わず「欧米といっても、英米と大陸欧州(ヨーロッパ)は違うよ」と突っ込みを入れたくなる。「欧米か」と一口に言っても、実はアングロサクソン系の英米と大陸ヨーロッパに二分されるのだ。
大陸ヨーロッパとは、ヨーロッパのうち英国を除く諸国、いわゆるヨーロッパ大陸の諸国を指す。英国の政治・経済・社会はいずれも大陸ヨーロッパ諸国とは乖離し、むしろ米国をはじめカナダ、オーストラリア、ニュージーランドと似通った性質を持つ。国際比較にはまとめてアングロサクソン諸国(英米諸国)として、大陸ヨーロッパとは別ものとして扱われる。
例えば、近代法は、判例主義に基づく英米法と成文法を中心とした大陸法に分かれる。英米法は、イングランドのコモンローに由来し、英米のほか、旧英領だったアングロサクソン諸国で主に採用されている。これに対し、大陸法の起源は、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス帝が編纂したローマ法大全を元にしたローマ法で、大陸ヨーロッパ諸国で広く採用され、日本をはじめ世界の多くの国で採用されている。
英国は、ヨーロッパ大陸北西部の周縁部に位置する島国で、大陸ヨーロッパとは異なる独自の文化圏を有している。ただし、英国と大陸を隔てるドーバー海峡の幅は、35〜40qしかないため、大陸から隔絶してるわけではなく、ローマ軍の侵攻、ノルマン・コンクウェスト、英仏百年戦争と絶えず直接的な影響を受けてきた。このため、英国と大陸ヨーロッパとの関係は、つきず離れずの関係にあり、現在も、英国はEU(ヨーロッパ連合)に加盟しているが、ヨーロッパ通貨であるユーロへの通貨統合が未だに見送られている。
現代ヨーロッパの起源は、800年のフランク王国カール大帝による西ローマ皇帝戴冠にある。カール大帝に戴冠により、ゲルマン世界とキリスト教世界とギリシア・ローマ文明の融合による中世西ヨーロッパ世界が成立する。このときのフランク王国の領域が、現代ヨーロッパの礎となった。カール大帝のフランク王国の領域が、EUの母胎となったEEC原6カ国の領域と重なることはよく知られた事実であり、英国のあるブリテン諸島は、旧フランク王国の領域に含まれない。

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2007/2/14
フリードマンの罠
日本では1990年代初めにバブル崩壊によって景気低迷が続いた際に、当初は旧来型のケインズ型経済政策にもとづき、財政政策による景気刺激が試みられたが、景気への効果は悉く数年しか保たなかった。日米構造協議や経済のグローバル化のなか、規制緩和、所得税の大幅減税とフラット化、ゼロ金利、金融ビッグバン、など新自由主義経済政策もとられたが、政策に一貫性が見られず、1997年の消費税の引き上げとアジア通貨危機、2000年春の米国ITバブルの崩壊により、日本経済は巨額の財政赤字と不良債権を抱え、バブル崩壊後最悪の状況を迎える。
そして、2001年に小泉内閣が成立し、竹中平蔵が入閣すると、旧来型のケインズ型経済政策からの決別と、新自由主義経済政策への転換を明白にする。公共事業の削減が進められ、量的緩和政策など金融政策(政府による日銀への介入)によってデフレからの脱却を図ることとなった。こういったなか規制緩和も推し進められ、2004年には製造業の労働者派遣が認められ、労働者の非正社員化を促進した。
出生率については、1980年代半ばから低下し続けており、必ずしも、労働者の非正社員化が少子化の主因とはいえないが、20代・30代の雇用の安定と所得の確保は少子化対策の前提条件であり、この前提無くしては効果的な少子化対策は生まれないのではいか。
この点について、ネオリベラリズム(新自由主義)経済政策の論客、昨年なくなったミルトン・フリードマンの説が説得力を持つ。フリードマンは、今期の消費は今期の(絶対的な)所得水準に依存するというケインズの絶対所得仮説を恒常所得仮説を用いて非難した。
恒常所得仮説は、今季の所得を、恒常所得と変動所得(一時的な所得)に分け、恒常所得は、長期にわたって得られることが予想される平均的な所得のことさし、消費は今期の所得ではなく、恒常所得に基づいて行なわれるというもので、短期的な財政支出は消費には結びつかないと主張した。
ところが、この恒常所得仮説で労働者の非正社員化を分析すれば、フリーターや派遣社員など非正社員の不安定な身分は、給与所得の変動所得化と恒常所得の減少を招き、当然、長期的な消費は抑制される。恒常所得仮説の説明には、自動車や住宅の購入が例に挙げられているが、現実には結婚と子育てが最大の消費であり、非正社員が結婚と子育てを抑制することは、当然に導かれるものである。新自由主義経済政策による少子化という問題は、新自由主義経済政策の理論によって導かれるのである。

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