(卯月廿四日) 55歳の死 その2  

元大関貴乃花が55歳で亡くなったことでふと思うことがあった。2005年が戦後60年という節目の年であることは、55歳というのは昭和25年生まれの団塊の世代である。小兵ながら真面目に相撲に取り組んだ貴乃花の姿は、戦後日本が歩んできた道ではなかったか、晩年の家庭崩壊ともいえるゴタゴタや一門の内紛などは、バブル崩壊後のさまよえる日本そのものではないか。

貴乃花と同じように日本という国が死ぬという悲観論は、まがりなりにも成長率がプラスであるこの国の経済力を考えれば、考えすぎというのが普通の考えだろう。しかし、最近の政治の混乱ぶりを見ると(東京都ももめているなあ、石原知事が沖ノ鳥島に行ってからか)いささか心配したくもなる。政治は二流、経済は一流という従来からの見方も経済が一時の勢いを失い、同じく二流とされたが、その経済もやや回復傾向が見られるが、日本の政治は相変わらずの談合状態。世界情勢をみれば、政治の力はあくまでも世界をリードするのだから、今の日本の政治を駄目にしている勢力の存在に国民は気付くべきである。
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(卯月廿参日 下弦) 55歳の死  

1975年3月のことだった。山口市の惣野旅館の大広間は受験日の前日にしては異様な雰囲気に包まれていた。大阪府立体育館でおこなわれていた大相撲春場所の千秋楽に酔いしれていた。かたや大横綱の地位を固めつつある北の湖、こなた悲願の優勝にあと一歩とした大関貴乃花。優勝決定戦の末(私の記憶で確かそうだったはず)西土俵に北の湖を押し出した貴乃花の頭上はすでに座布団が舞っていた。実弟に優勝旗を手渡す鬼の先代若乃花の目は潤んでいた。

国立一期校(といっても分からない世代ばっかりか)の受験に失敗した田舎高校生は、これまたあまりの田舎くさい山口という町にうんざりしながら、翌日の試験を前に心は沈んでいた。父親の事故で生計もままならないのに、浪人どころではないのだが、どうしても都会の大学に行きたいという夢を抱いていた。二期校でたまたま選んでいた山口大学は彼にとってはたんなる滑り止め以外の何物でもなかった。

そんな気持ちを共有していたのか、旅館の同部屋の人間はそれぞれ個性的でとても受験生とは見えず、相撲を見ながらビールを飲んでいる者もいた。それでも悲壮感溢れる貴乃花の姿に、「判官びいき」という日本人の琴線をふるわせる何かが同化したようだった。優勝を決めた瞬間、旅館の部屋は歓喜の渦が舞い上がっていた。小兵の貴乃花の夢がかなったことを我がことのように喜び合った。

次は横綱かといわれたが、太れない体質が禍し、正攻法の攻めから怪我をすることが度々あり、ついに頂点にはたどり着けなかった。しかし、その息子達は親が出来なかった史上初めての兄弟横綱を張り、相撲人気を大いに盛り上げた。

ここ数年は女将さんとの離婚など何かと暗い話題しかなく、栄光の時代を知る我々からみると寂しい限りだったが、予期していたとはいえ、こうも早く死を迎えるということは本当に残念の一言に尽きる。北の富士戦の「かばい手」など驚異の粘りで相撲界の常識を覆した男も病には勝てなかった。合掌。

追記
先日定年を迎えた大鵬親方の最後の対戦相手は先代貴乃花、その貴乃花の最後の相手は千代の富士、さらに千代の富士の最後の相手は息子の貴花田。歴史というのは輪廻のようで摩訶不思議である。
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(卯月廿弐日) ディープインパクト  

いやはや恐れ入りました。他の馬の力がどうこういうものでもないだろう。これほど強い馬は本当に久しぶりである。怪物、天馬など過去に称された名馬はいたが、この馬も確実にその仲間入りをした。単勝支持率72%とはあのハイセイコーをも凌ぐ数字。1.1倍でも賭けるんですなあ。まあ確実に一日で一割まわる商品はないだろうし。ははは。

東京優駿つまりダービーというのは馬の生産者、馬主、調教師、騎手それぞれに思いの丈があるだろうし、皐月賞や菊花賞のシーンは忘れてもダービーの左回りのシーンは覚えているという競馬ファンも多いのではないだろうか。

とはいえ、ハイセイコーといえども伝説の馬になり、1973年といえば32年前にもなる。そのときの一着はタケポープ。9番人気の馬であった。しかし、ハイセイコーを抑えてスターダムに上がってから、この馬の運命が決まった。しかし、ディープインパクトを凌ぐ馬を見つけることは難しい。夏の暑さを過ごしても無敵のまま、秋の戦いに挑むのであろう。パーフェクトという言葉は競馬には存在しないと思っていたが、この馬だけはその常識を覆すだけの力を秘めている。
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(卯月廿壱日 八専始) 河村瑞賢  

最近の教科者ではどうなのか知らないが、私が河村瑞賢の名前を目にしたのは中学の社会科の教科書だったと思う。江戸時代の治水に貢献した豪商という記載だったと思うが、今日のテレビで、有名な明暦の振袖火事で彼が取った行動がクイズになっていた。これは有名な話で、江戸の火がまだ消えやらぬときに、河村瑞賢(当時はまた苗字を帯刀しておらず、十右衛門という名前だった)は有り金をもって、木曾の山中に向かい、火事のあとに必要になる材木を買い占め、言い値で売ることに成功し、大富豪となったわけだ。

しかし、十右衛門の話としてもっと知っておきたいことがある。彼は伊勢の出身で若くして江戸に出てきたが、さっぱりで乞食同然の生活状態になり、江戸を後にした。小田原である老人に諭され、「宝の山」の江戸に帰ることにした。その道中、品川の浜で江戸の町人が捨てた瓜や茄子が漂っているのを見つけた。今まで気付かなかったのだが、これが「宝の山」と思った十右衛門は、残菜を集めて漬物に仕込んで行商をした。安くもあり昼の弁当の菜にちょうどよかったので飛ぶように売れた。拾っては漬け、漬けては売った。買って食う者こそいい面の皮だったが、材料はただなので面白いほど儲かったのだ。

工事場に出入りする便宜を図ってもらうために、普請の役人に袖の下を使うことも忘れなかった。役人も喜んで目をかけるうちに、漬物屋から人夫頭の登用した。その間に十右衛門は土木や建築のことを覚えたのである。これが例の火事のあとの行動につながった。河村瑞賢の知られざる話である。

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(卯月廿日) 泉南の風景  

この一週間、ある案件で泉大津市をたずねること三度。今日成約となってめでたしめでたしである。ところで、この泉大津という町は、伝統的に織物工場が点在しており、その看板がひしめいている。

幹線道路を外れると、狭い路地の両側に工場があって、その周辺には畑という泉南の典型的な風景がそこにはある。最近では安価な中国製に押されて、一時の勢いはないが、中国製を輸入しながら商社機能として逞しく活動している会社もある。

そうした看板の狭間に「水茄子」の文字を見つけたときは、この季節がやってきたことを実感させた。あのみずみずしい食感は単に漬物だけでなく、寿司のネタになるくらい大阪ではポピュラーである。やはり季節感のある食べ物というのはいいものである。
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(卯月壱拾九日) 人事の季節  

6月の株主総会を前に当社でも役員人事があって、それぞれ昇進したり、新たに新任の執行役員にこの会社に来た当時の支店長がなったりと、はや2年が経ったのかと感慨深いものがある。その間、私には進展と云うべきものはなく、淡々と仕事をこなしているといえば格好がいいが、自分が50歳を前に何をなすべきか、今だ迷っているという状態かもしれない。

組織であるからには、それなりの管理者が必要である。ただ、その管理能力が適切かといわれれば、その後の人事を見ると不透明ということはよくあることである。管理者というのはある程度の教育が必要であり、それによって管理者としての能力が高まることは必然だろう。しかし、天性、管理者に向かない器量があるということもまた必然ではないだろうか。そういう「うつわ」のサラリーマンは、すすんで非管理者の道をゆく栄光を持つべきだと考えている。
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(卯月壱拾八日) 危機認識  

BSE問題で米国産牛肉の輸入がストップしたのは2003年12月。牛丼といえば吉野家でマスコミも復活牛丼!などのイベントがあると、吉野家にカメラが並ぶという光景がTVには映るが、なんと同業のゼンショーが売上及び利益とも吉野家を抜き去ったという。たしかにファミレスがグループ内にあるので、単純に比べられないが、勢いは完全にゼンショーの勝利である。

米国産牛肉の輸入禁止という危機に直面した同業なのにこの差はなぜ生じたのだろうか。もうほとんどの人は忘れているかもしれないが、吉野家は一度倒産している。微妙に肉の質を落とし客の反発を買ったのである。こうした体験がある企業ではこうした危機においては、身構えるというか萎縮してしまうものである。すなわち危機を危険とみなしてしまうわけだ。

しかし危機は「危険」とともに「好機」という組み合わせからできていることを忘れていなかったのが、売上を大幅に伸ばしたゼンショーである。提供する牛丼に対して、妙なこだわりをもった吉野家に対して、ゼンショーは「うまい、やすい、はやい」という単純なコンセプトで食事の便利さの提供を仕掛けたゼンショーの違いといってもいいかもしれない。しかし、このキャッチフレーズ、吉野家のものだったはずである。しかも店舗の急拡大を図って一気に牛丼の代名詞を吉野家から奪おうとしているわけで、企業の盛衰物語としてはとても参考になるケースである。
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