(葉月壱拾五日 望 十五夜) 判官贔屓  

NHK大河ドラマ「義経」も壇ノ浦の戦いが終わり、悲劇の将としての兄頼朝との対立がこれから年末まで演じられる。今日の安徳帝の身代わり説など、宮尾本の真髄を絡ませているが、義経は日本歴史上、初めてヒーローというべき人気者として京に凱旋した。それだけに頼朝の仕打ちに判官贔屓という感情が庶民に広がっていったのは至極当然のことだった。

しかし、義経の戦の仕方というのは奇策というか、敵を欺くいわばゲリラ戦だっただけに、歴史にその存在を残せない百姓などはえらい目にあっている。四国出身の私にとっても、屋島の合戦の前に大軍と見せかけるために各所に火をつけていったことなどは、当時の農民にとっては鬼としか見なさなかったかもしれない。

仲秋の名月といえども真夏日という季節感から、なかなか馴染めない。田舎の空に浮かぶ月は900年の時を超えても変わらない。人間そして肉親の間の感情というのはいつの世も同じことかもしれない。頼朝のように新しい政治体制を目指す者にとって、過去の権威に疑問をもたず、ひたすら肉親の情だけに頼ろうとする世間知らずの弟はその役目が過ぎれば、いらぬ存在だったのかもしれない。

過去を捨てることは痛みを生じる。その痛みが分からぬ者は次の時代の主役にはなれない。なにやら時代の節目を感じさせるドラマでもある。しかし、日本人はその悲劇性を好んできた。勝ち馬に乗るということが当り前になりそうな今の日本にとっても、義経という武将の見方にも変化が出てくるのであろうか。
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