(睦月廿六日) 数奇なこと  

気象庁の課長だった山岳気象の第一人者、藤原寛人という名前を知らなくても、新田次郎という作家の名はほとんどの人が知っているだろう。この新田氏に『赤ちゃんがうまれたとき』という逸話があるそうだ。生まれたばかりの赤ちゃんが、母乳を吸う話である。力強く吸う、誕生早々の赤ちゃんの唇や舌にそれほど強い筋肉があるものかどうか、当時の新田氏はーおそらく新京(長春、今の中国東北部、旧満州である)時代―疑問をもたれた。ふと仮説をたて、ひょっとすると赤ちゃんは自分の舌で乳房の乳頭を巻き、真空をつくっているのではないかということなのである。
 それだけでなく、容積やら何やらを数字にして計算してみたという。

司馬遼太郎はこれをきいて、新田氏にとって数学は誌のようなものではないかと思ったという。その司馬氏が枕頭で本を読んでいるうちに、飛び上がるほど驚いたことがあった。著者である数学者が文部省の長期在外研究員として、イギリスのケンブリッジに赴き、そのときの実景と実感の文学的報告を「遥かなるケンブリッジー数学者のイギリス」という本である。この本の著者の藤原正彦氏が、あの赤ちゃんではないか、と思ったという。

最近のベストセラー「国家の品格」ですっかり有名になった藤原正彦氏はこのように新田次郎氏の子息である。「真空論」に登場する新京時代の藤原家の赤ちゃんの著作を現在の我々も読んでいる。読書というのは「数奇なこと」に出くわすものである。
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