(如月壱拾壱日) JAZZ  

道頓堀のやや北にアクロスビルという飲食店ビルがある。その7Fで知り合いのジャズシンガーがミニコンサートをするというので知人と出かけた。週末の雨とあって9時といっても少し席に余裕があった。ここは軽い食事をしながら、もちろん飲みながらいろいろな音楽を楽しめるところである。知人のNさんと初めて会ったのは一月末だった。若手のボーカルで今後の活躍が期待されるが、今日はベテランの二人のボーカルに少々遠慮気味だったのは仕方のないところか。

食事をしながらのJAZZといえば、東京時代にJR田町の近くの「スウイング」を思い出す。ジャズというと結構敷居が高いてちょっと距離があったのだけど、これを機会に少し聞くようになった。綾戸智絵や小林桂のCDを聞いていたが、綾戸の迫力に圧倒された。小林はもう少し期待していたが、イマイチのようですなあ。

今日は席の周りを見ると、やっぱり年配の方が多く、大人の店ということですか。時計を見ると11時を廻っていて、もう少しで午前様になりそうだった。また彼女の声を聞いてみたいものです。
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(如月壱拾日) 一つ星転落  

フレンチの名門「トゥール・ダルジャン」がミシュランの格付けで一つ星に転落したらしい。創業1582年、最も由緒正しき店で常に三ツ星を獲得していたが、1996年に二つ星に転落し、10年経って更にランクを落とした理由は、客のほとんどが日本人や米国人で観光客が集まる場所として有名になってしまい、店が荒れてしまったとのことらしい。

有名になった店はすべからく味が落ちるというのは、古今東西を問わず不変のセオリーである。売り上げや利益を拡大しようとすれば、マスコミで宣伝してもらって新規客を増やせば簡単に達成できる。しかし、これは麻薬みたいなもので長期的には売上も客単価も減少するのである。

一流が一流たる所以はそのサービスの厳格さにある。例えば、セントアンドルースでハンディ30台のプレーヤーがクラブを振っても、そこらへんの河川敷のゴルフ場と変わらないだろう。だから、セントアンドルースはハンディの多い一見客の受け入れを限定している。誰が自分の本当の客かを考えさせられる「トゥール・ダルジャン」の転落である。
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(如月九日) ウェブ進化論  

梅田望夫署 ちくま新書

いわゆるベストセラー本である。筆者はシリコンバレーで10年以上IT産業の盛衰をみてきたコンサルタントで、日本のネット戦略の矛盾をついた本というのが一般的な見方だろう。

インターネットが社会に与えている影響は想像以上に大きいものがある。特に日本がここ数年で高速ネットのインフラ整備で世界の頂点に立ったが、相変わらずソフト戦略はアメリカが先行している。その象徴がグーグルであると筆者は言う。確かに検索サービスしか思いつかない人も多いだろうが、自分のデスクトップ検索でグーグルのソフトをダウンロードした人はその便利さに納得しているはずだ。硬直的な社会システムが日本のソフト開発を阻害しているという指摘はあたっているだろうが、一度も組織を辞めたことのない人の発想だけで支配されているというのは、46歳にもなって今までどんなコンサルタントをしていたのか疑問である。シリコンバレーだけで世界を見てきた了見の狭さを感じる。そもそも世代交代しか変革できないから、年上のものと会わないといいながら、元SME社長の丸山茂雄氏を取り上げているのは違和感を覚える。

IT産業とはimmoral tradingの別名ではないかという思いが募るばかりだ。


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(如月八日 上弦) ホテルのランチ  

お客さんが難波に来られて、たまにはということで近くのスイスホテル南海大阪の6Fの「カフェ スイス」へ。このホテルも元々南海電鉄が自主運営していたが、有利子負債削減のため外資系に売却というお決まりのコースになったものである。12時半を廻ってランチバイキングがメインのこのレストランに入ると、顔であるKさんは他の人が満席ですと言われているのに、さっさと席に案内される。流石!ここはバイキングなどちゃらちゃらしないで、単品料理にコーヒーというメニューで歓談が進む。しかし、仕事の話をしながら周りを覗うと、女性ばかりに目を見張ることに。聞いてはいたが、最近のホテルは女性客でもっているのを実感する。お父さんはワンコインのランチで済ませているのに、3000円のバイキングを黙々と食しているおばちゃんを見ると、世間のお父さんの嘆きが聞こえるようだ。

そんな時にあやしげな電話が携帯にかかってくる。どうも愚息が何かクレジットで購入したらしく、その確認の電話らしい。ここから先は親父と愚息の携帯電話バトル。あほな息子を持ったことに親としての躾不足を痛感する。こんな日はいろいろとクレームの電話があったりして、久しぶりの暗い一日だ。
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(如月七日 啓蟄) 駒大苫小牧事件  

昨夏の甲子園で連覇を成し遂げた駒大苫小牧は夏の大会後、暴力事件が発覚して、あやうく優勝が取り消されるかもしれない事態になった。その前の高知明徳義塾の事件があっただけにその明暗が分かれたのはまだ記憶に新しい。その駒苫の卒業生部員が卒業式当日喫煙飲酒で補導され、選抜大会を辞退することになった。これに関しては、「当然だ」とか「ゆきすぎだ」と意見が分かれているが、そういう問題ではない。

そもそも法律上、未成年者は飲酒や喫煙をしてはならないことになっているが、その監視義務は未成年者本人にではなく、保護者や店主側にある(未成年者飲酒禁止法第1条)。罰則も本人たちにではなく保護者と店側にのみ定められている(同第3条)。この場合の保護者は、親のことではなく《未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者若ハ親権者ニ代リテ之ヲ監督スル者》とあるから、卒業まで部員であることが決められている高野連の規定にしたがえば、卒業を控えた部員の飲酒などを監督し静止する責任は、保護者と学校側とりわけ野球部の部長や監督にある。道義的責任以前に、刑法的責任が、大人たちにあるのは明確である。それで記者会見では、監督と部長が辞任し、すでに決まっていた選抜(毎日新聞社主催)を辞退する、と発表した。だが、学校側はこれで何を守ったのか。

当面の選抜を諦める一方で、夏の甲子園(朝日新聞社主催)に出ることを彼らが選んだのを誰も云わないが、実態は夏には行きたいということだろう。そして今のところ、部長と監督が「辞任」することで、大人の責任を果たせたように見せかけることに成功している。しかし、いわゆる「部活」は学習指導要領を含む現在の教育法体系では学校教育の一環ではない。「教育の一環なのだから厳しい処分もやむをえない」とコメントする声が多々見られるが、これも間違いなのだ。少なくとも甲子園をめざす野球部は、学校教育ではなく、社会体育の領域に属しているのである。

 実際、教諭が兼務する部長や監督には、金銭的保証も時間的保証も法的保障もない。ではボランティアかというと聞こえはいいが、ここに「私物化」と「暴力」温存の源泉があるのだ。部長や監督を「辞任」するといっても、正式な辞令などもともと存在していないのだから、いつでもカムバックできる。教師を「辞職」したのではないし、辞令さえない部長や監督を「辞任」したにすぎないという矛盾だらけの責任の取り方がおかしいと誰も指摘しないことが、マスコミの勉強不足というものだ。
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(如月六日) ルールの見直し  

WBCと略すると、ボクシングかプロレスのことかと思ったのは私だけだろうか。中国、台湾とコールド勝ちをおさめたのが台湾出身の王監督率いる日本というのも皮肉にも思えるが、それは実力のうちだ。でもこの大会は投手の65球ルールとかストライクゾーンやボールの違いとか、日本のプロ野球とは違うルールで戸惑っている姿も垣間見える。

ルールといえば、トリノ五輪でもジャンプの原田の失格は長野以来アジア人には不利なルール改正であえぐ日本ジャンプ陣を象徴しているようだし、曖昧な採点が改正され、うまく取り入れた荒川の金メダルにつながった女子フェギュアと明暗を分けた。NYタイムズなど女子フィギュアについて、誰が金メダルを取ったのではなく、誰が取れなかったのが記憶に残るなどと、相変わらずの白人優位を堂々と述べているが、次に来る浅田真央あたりを警戒して、今の採点法が次の五輪まで続くという保証はない。私個人の感想としては、この採点法はフリーをつまらなくしかねないと思っているし、長野のジャンプやその前の複合競技のルール改正を思い出すばかりだ。

最近、世間を騒がせている諸事件も、ことごとく「ルールの問題」であることに気づく。耐震強度の偽装、米国産牛肉の再禁輸、ライブドア事件、ドン・キホーテによるオリジン東秀の買収作戦、民主党代議士による武部幹事長追及、さまざまな談合発覚などなど。経済がうまく回っているときには、特定集団内での談合ほど便利なシステムはなかった。話し合いによる処理を意味する談合は、人類史を遠くさかのぼっても、むしろ平和維持装置として機能する場面が多かった。しかしある時期から、公共事業における談合は税金の無駄遣いであり、天下りの温床でもあり、身内で仕事を回しているだけでは国際競争力の前に敗退必至である、と強く認識されるようになった。

それまでの当たり前とされたことがが、告発や異議申し立てによって、新しい基準や法やルールにとってかわられる。もちろん、それがまた行きすぎである場合も多々あるのだが、民主主義社会では言論と選挙を通じて説得や批判をしあってゆくほかない。悪法も法なのである。これを否定すると、テロや暴力革命が許されることになる。

ギリシアの哲人ソクラテスも、「民衆を惑わせた罪」により死刑判決を受け、毒杯をあおいで命を絶った。ソクラテスは、「悪法も法なり」との思想を自ら実践したわけだ。しかし、ソクラテスは扇動者や権力に従順だったわけではない。悪法も法として遵守しながらも、悪法であることを明言し続けた。この叡知にどれだけ近づけられるかが人間としての価値につながるのではないか。
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(如月五日) 輪切り  

今週も広島の病院へ検査に行く。今日は前回の検査で問題になった内臓部がどうなっているかを検査するためのCT検査である。X線を浴びるとはいえ、MRのようなあの工事現場のような騒音と、短時間で住むという利点がある。しかし、この病院、いつものことだがとても混んでいて、CT検査が終わってもなかなか診察の順番が回ってこない。すでに時計は12時を回り、待ち合わせをしている愚妻にメールを打とうかと思っていたら、ようやく○○さんとの声が聞こえた。

H先生はいつもの穏やかな顔で、目の前にある私のCT画像を並べて詳しく説明してくれる。開口一番、脂肪の多さを指摘される。特にお腹周りは酷く、自分自身も恥ずかしいぐらいの脂肪量で、なんとか燃焼しなければときつく云われる。さて、そのあとだが、腎臓部にかすかな白い点が見える。新たな石なのか、それとも大阪で破砕した石の残りかは、当然H先生には分からない。済生会中津病院では腎臓にまだ石があることなんか、夏以降何も言われていない。またしてもいい加減な治療に腹が立つばかり。そして肝心の尿管の石はどうかといえば、あれ、一個しかありませんなあ。先生が一個出たわけないよねえ、といわれたので、あの大きさでは痛くて出たら分かりますわと、こちらも大爆笑。角度の関係で二個が重なっているのだろう。

そしてソケイ部のメッシュは衝撃波を当てるには問題にならないので、とりあえず13日に破砕手術の予定となった。なんとか無事に割れてほしいものだ。
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