(如月六日) ルールの見直し  

WBCと略すると、ボクシングかプロレスのことかと思ったのは私だけだろうか。中国、台湾とコールド勝ちをおさめたのが台湾出身の王監督率いる日本というのも皮肉にも思えるが、それは実力のうちだ。でもこの大会は投手の65球ルールとかストライクゾーンやボールの違いとか、日本のプロ野球とは違うルールで戸惑っている姿も垣間見える。

ルールといえば、トリノ五輪でもジャンプの原田の失格は長野以来アジア人には不利なルール改正であえぐ日本ジャンプ陣を象徴しているようだし、曖昧な採点が改正され、うまく取り入れた荒川の金メダルにつながった女子フェギュアと明暗を分けた。NYタイムズなど女子フィギュアについて、誰が金メダルを取ったのではなく、誰が取れなかったのが記憶に残るなどと、相変わらずの白人優位を堂々と述べているが、次に来る浅田真央あたりを警戒して、今の採点法が次の五輪まで続くという保証はない。私個人の感想としては、この採点法はフリーをつまらなくしかねないと思っているし、長野のジャンプやその前の複合競技のルール改正を思い出すばかりだ。

最近、世間を騒がせている諸事件も、ことごとく「ルールの問題」であることに気づく。耐震強度の偽装、米国産牛肉の再禁輸、ライブドア事件、ドン・キホーテによるオリジン東秀の買収作戦、民主党代議士による武部幹事長追及、さまざまな談合発覚などなど。経済がうまく回っているときには、特定集団内での談合ほど便利なシステムはなかった。話し合いによる処理を意味する談合は、人類史を遠くさかのぼっても、むしろ平和維持装置として機能する場面が多かった。しかしある時期から、公共事業における談合は税金の無駄遣いであり、天下りの温床でもあり、身内で仕事を回しているだけでは国際競争力の前に敗退必至である、と強く認識されるようになった。

それまでの当たり前とされたことがが、告発や異議申し立てによって、新しい基準や法やルールにとってかわられる。もちろん、それがまた行きすぎである場合も多々あるのだが、民主主義社会では言論と選挙を通じて説得や批判をしあってゆくほかない。悪法も法なのである。これを否定すると、テロや暴力革命が許されることになる。

ギリシアの哲人ソクラテスも、「民衆を惑わせた罪」により死刑判決を受け、毒杯をあおいで命を絶った。ソクラテスは、「悪法も法なり」との思想を自ら実践したわけだ。しかし、ソクラテスは扇動者や権力に従順だったわけではない。悪法も法として遵守しながらも、悪法であることを明言し続けた。この叡知にどれだけ近づけられるかが人間としての価値につながるのではないか。
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