(如月七日 啓蟄) 駒大苫小牧事件  

昨夏の甲子園で連覇を成し遂げた駒大苫小牧は夏の大会後、暴力事件が発覚して、あやうく優勝が取り消されるかもしれない事態になった。その前の高知明徳義塾の事件があっただけにその明暗が分かれたのはまだ記憶に新しい。その駒苫の卒業生部員が卒業式当日喫煙飲酒で補導され、選抜大会を辞退することになった。これに関しては、「当然だ」とか「ゆきすぎだ」と意見が分かれているが、そういう問題ではない。

そもそも法律上、未成年者は飲酒や喫煙をしてはならないことになっているが、その監視義務は未成年者本人にではなく、保護者や店主側にある(未成年者飲酒禁止法第1条)。罰則も本人たちにではなく保護者と店側にのみ定められている(同第3条)。この場合の保護者は、親のことではなく《未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者若ハ親権者ニ代リテ之ヲ監督スル者》とあるから、卒業まで部員であることが決められている高野連の規定にしたがえば、卒業を控えた部員の飲酒などを監督し静止する責任は、保護者と学校側とりわけ野球部の部長や監督にある。道義的責任以前に、刑法的責任が、大人たちにあるのは明確である。それで記者会見では、監督と部長が辞任し、すでに決まっていた選抜(毎日新聞社主催)を辞退する、と発表した。だが、学校側はこれで何を守ったのか。

当面の選抜を諦める一方で、夏の甲子園(朝日新聞社主催)に出ることを彼らが選んだのを誰も云わないが、実態は夏には行きたいということだろう。そして今のところ、部長と監督が「辞任」することで、大人の責任を果たせたように見せかけることに成功している。しかし、いわゆる「部活」は学習指導要領を含む現在の教育法体系では学校教育の一環ではない。「教育の一環なのだから厳しい処分もやむをえない」とコメントする声が多々見られるが、これも間違いなのだ。少なくとも甲子園をめざす野球部は、学校教育ではなく、社会体育の領域に属しているのである。

 実際、教諭が兼務する部長や監督には、金銭的保証も時間的保証も法的保障もない。ではボランティアかというと聞こえはいいが、ここに「私物化」と「暴力」温存の源泉があるのだ。部長や監督を「辞任」するといっても、正式な辞令などもともと存在していないのだから、いつでもカムバックできる。教師を「辞職」したのではないし、辞令さえない部長や監督を「辞任」したにすぎないという矛盾だらけの責任の取り方がおかしいと誰も指摘しないことが、マスコミの勉強不足というものだ。
0




AutoPage最新お知らせ