(弥生弐日) 尊厳死  

富山の市民病院で外科部長が延命治療中止の判断をしたことが問題になっている。安楽死肯定派は現実に身内で末期がん患者に接して、その悲惨さが目に浮かぶだけに感情的に認める場合が多い。私も叔父が癌になったときの末期は見ていられなかった。モルモットではないと医者に詰め寄ったこともある。しかし、そうした個人的な思いを横においてこの問題の本質を考えたい。

人は他人を殺すという権利はもてない。自殺というのは権利としてはあるかもしれない。そもそも「権利」とは個人が「する」か「しない」かを決められる正当性のことである。これに対して義務という概念には選択肢がない。これが権利と義務の決定的な相違である。最近はこの概念を混乱させる発言が多く目立っているのは嘆かわしいことである。

オランダでは本人の意思表示に基づく安楽死を合法化したのは、この自殺する権利を認めたものである。患者本人の意思で致死量の薬を投与されて合法的に「積極的安楽死」が複数の医師によっておこなわれる。日本でも延命治療を中止する消極的安楽死は、本人または家族の意思があれば認められるというのが通例だろう。

しかし、富山の場合では家族の意思があやふやで主治医の独断で決められていたようだ。消極的安楽死といいながら、本人の意思を前提としないのだからより積極的な行為でもある。自殺する物理的能力を失った人に対して、他人が代理でその権利をおこなうことを認めれば、医師や家族が患者を「殺せる」ことになる。やはり本人の意思が確認できなければ「殺人」という原点に立ち返る必要があるのではないか。
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