(水無月壱拾六日 望) 勉強と教育  

父親の体罰にキレて家に放火し、義母と義妹弟を焼死させた高校一年生は「幼稚園の時から父親の監視下で長時間勉強させられ辛かった。皆と同じように遊びたかった。」と報じられている。ゴルフの横峯やボクシングの亀田であれば許されることが、こと勉強ということになると、親はスパルタになってはいけない、ということだろうか。なにかおかしいのではないか。犯罪というのは結果に対して責任がもてるかどうかである。死んだ者がいる限り、加害者は自己弁護になりやすい。これは人間である以上仕方がないことだし、ましてや高校生であれば、その未熟さは否めない。

勉強という言葉に重苦しさがあるのは仕方がないことで、楽しい勉強だけだというのはよっぽど頭のいい奴だけだろう。凡人はそうはいかない。しかし、苦しんで苦しんで見事解答が頭に浮かんだ時ほど痛快なことはない。確かに勉強と努力が同じように使われる。しかし、それは頭の勉強だけではないはずだ。努力をしなければ勉強の成果は上がらないというふうに使われるが、最後まで苦痛の努力をするわけでもないだろう。先程の繰り返しになるが、どこかで面白くなる時があるはずである。全ての勉強が嫌ではなく、どれか一つは興味のある分野があるはずだ。どれもこれもが美味しい食材である方がおかしい。

不得意科目を克服することは難しいし、努力ばかりするというのもつらいものだ。では、それはそこそこで、得意の科目を伸ばせばマイナスを埋めるプラスが生じるはずである。それをいかに自分で納得させるかが、そいつの器量というものだ。好きなことを寝ることも忘れて、時間も忘れて集中して楽しむことが自分の人生を豊かにするし、それは不可能なことではない。ただ、楽してそれは得られない。

奈良の高校生には嘆願書が1500通も来ていると弁護士は言う。しかし、犯罪は犯罪である。殺されてもいい人間が義母と義妹弟だったかどうか、彼はその罪を償う義務がある。過程ではいくらでも人は「こいつ、殺してやりたい。」と思うときはあるだろう。しかし、それを実行すればただの犯罪者である。人に情けをかけることは必要だが、必要以上の同情は彼の人生を狂わすもとである。

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