(葉月廿六日) 喪失感  

先日から金銭が絡んだ臓器移植や代理出産など、人間の倫理を考えさせられる事件が続いている。本人にとって生きるか死ぬかの問題であり、所詮は他人の問題である。お前がその立場になれば、なんでもするというのではないかという自問も残るが、あえて私は訴えたい。去り行く者を静かに見守ることはできないか。

人間長く生きればいろいろな苦難にあう。幸運にも長生きできたものもいれば、あえない事故で儚く散っていく命もある。先天性の病魔で苦しんでいる人も数多くいるだろう。自分の娘が精神薄弱、すなわち知恵遅れという立場で申せば、なぜ私の家族がという苦しみ悔しさなど、この二十年間思わない日がないというのは嘘になる。でも人間の幸せってなんだろうかと考えさせられたし、これほど純粋な人間が身近にいることの喜びといえば大袈裟になるが、それに近いものを感じている。

努力というのは現状を否定することである。今の自分に満足できない者だけが努力をするのである。しかし、その努力には無駄な努力と有益な努力があることに気付かなければならない。自分も娘のために努力したかといわれれば、それなりにやったと思うし、自分の力の限界も感じた。ただ、まがりなりにもこの10月で20歳迎えることができ、これからの彼女の人生にどれだけサポートできるかが私の生きがいになるのだろう。

精一杯のことが、自分のお腹をいためて娘の子を宿したり、他人の腎臓を当てにするというのは何か違和感を感じる。治療であれば全て許されるというのは、少々神の領域を冒すことにはならないか。努力はした、しかし全ては解決しなかった。でも一歩でも前に進んだと自己が思うのであれば、そこで立ち止まることも許されるのでないか。全てを失うことが許せないのは傲慢である。
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