(如月廿日) 赤ちゃんポスト  社会

「こうのとりのゆりかご」を巡っては賛成派と反対派にきれいに分かれている。原理原則を貫けばふざけた話だが、この病院の背景をもう少し知るべきであり、マスコミも第一号を押さえるのに躍起になるより、もっと誠実な報道に努めるべきではないか。

何事も違法でない解決策があれば、それを解決しようとする人たちの力でやってみればいい。そのような取り組みを数年続けて問題が生ずれば、改善すればいいのではないか。今の日本にはそうした柔軟性が無いのは情けない話だ。産婦人科病院にとって、堕胎よりも命を救うことに対しての誇りを持つことは云うまでもない。日本では堕胎は合法であるが、赤ちゃんをごみのように捨てるのは無論犯罪である。その堕胎をカトリックは容認していない。

今回問題になった熊本市の慈恵病院の理事長も病院長も婦長もカトリックの敬虔な信者であり、明治以来1978年まで修道会が運営していた時代には、医師も看護師もカトリックのシスターたちだった。78年からは医療法人に改変したので、もちろんそうでない人たちも加わっているが、慈恵病院は今でもカトリック精神で運営されている病院なのである。日本人の多くはこうした宗教観に薄いので仕方が無いが、神の意思を人間の技術で妨げてはならないのである。したがって慈恵病院では「経済的理由」での中絶手術はおこなっていない筈である。つまり熊本の「赤ちゃんポスト」問題には宗教的背景が関わっているのである。

物事を杓子定規に構えると、親から見捨てられた子供は施設以外に行くところがなくなる。「実の親による子育て」を原理原則とすれば、そうした可能性に全く無頓着となる。原理原則だけでは世の中うまくいくはずがない。とにかく被害者(この場合は赤ちゃんかな)をひとまず最悪の環境から救うのが先決なのである。法の裁きはそれから先の話である。

もともと慈恵病院は明治時代にハンセン病患者や生活困窮者のために開設された修道院内の診療所であった。この伝統的病院の新たな取り組みによって、全国各地の普通の病院がどんどん同じ試みを開始するなどと思うほうがおかしくはないか。静かに見守ることが一番なのだ。
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