(如月廿弐日) 特捜検察と金融権力  読書

村山治著 朝日新聞社

1991年毎日新聞から朝日新聞に移った村山は記者としては、典型的な書かないタイプだった。毎日でも東西の司法記者クラブで検察を担当し、当時の薬害エイズ事件を担当し、朝日では東京佐川急便事件やその後の大型経済事件を取材し続けた。昨年朝日の夕刊で「人脈記」の連載で法曹界シリーズを担当したことが、彼をしてようやく沈黙を破る本書の出番となったようだ。したがって検察陣営の年表に関してはこと細かく、役所の上下関係がよくわかる。

本の帯に「本来、国策とは国の政策をいう。検察は国の行政機関である。その検察が国の政策に沿って権限を行使するのは当然である。」「国策捜査イコール『悪』ではない。民間企業である住専や銀行の破綻の穴埋めに税金を投入するからにはそれらの経営者の責任追及は必要であり、本来検察が積極的に取り組むべき仕事である。国民もそれを望んでいた」とある。当時のマスコミの主張はこの趣旨に沿うものだった。

しかし、ここでいう「国」とは純粋な統治主体なのだろうか。そしてまた、この「国民」ということに実体があったのかと自問してみれば、やはり違うのではないかと思う。やはり、これは検察の論理に他ならなかったのではないか。

ライブドアに強制捜査が入った際、これも国策捜査といわれたが、村山氏はそうは受け取らなかったようだ。確かに、検察と旧大蔵という霞ヶ関の権力の頂点が分裂して、国家の態をなさなくなったのは事実だが、本の結末のように松尾検事総長が五味長官に退任挨拶でシャンシャンというのは少し論点がずれているのではないか。霞ヶ関は形状記憶合金のように修復されたとは思えない。市場という集団の知とも云えるものから輩出される悪玉に、正義と公正を標榜する統治機関がついていけなくなり、挙句強引で乱暴な強制捜査と税務調査で生贄をあげたというべきではないか。それで統治機関が回復したというにはあまりに幼稚だ。

筆の進め方はさすがに村山らしいが、終わりに従って筆が流れのままに流されていく脱力感は否めない。プロ野球ファンとしては、ライブドアの球界進出騒動で、渦中の球団を「近鉄バッファローズ」と表記しているのは明らかに校正のミスである。誰もが嵌りそうな落とし穴に入っている様は見苦しい。
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