(弥生壱拾四日 小望月) パワーポイント  社会

今日は大阪でセミナーがあって出掛けた。最近のセミナーでは当たり前であるが、講師がパワーポイントを駆使して解説していた。もちろん手元にその資料があるわけではない。そこで講師には失礼だが、ふと思ったことがあった。

パワポが普及する以前にも、最初から最後まで「予定調和」で話す講師は少なくなかったと思うが、アカデミックな発表のような退屈な講演を除けば、手元のレジメをいちいち見ながら話す人は、上手な講師とは見なされなかったはずである。さらに講師は、常に「次」の話題を頭の片隅で考えながら「今」すべき話題を扱い続けるという結構厄介な問題を抱えている。しかも同時に、手元の紙や画面を見ながら、リスナーの反応を意識し続けるという、それなりの芸当を要する。そして余った時間にオマケのような質疑応答をすればそれで双方向になるというものではなく、講演やセミナーでは、講師と客席とのあいだに間断の無い対話が肝要であり、その共有がなければLIVEの意味は半減してしまう。

パワポの短所は、最初から最後まで「話の筋」が決められてしまっているという予定調和であり、パワポ全盛時代にはリスナーの反応を見ながらライブ感覚で話を双方向に深めてゆく技が希薄になっているのである。パワポを事前に作りこめば作りこむほど、より予定調和になる。そしてより大きい問題は聞き手の側である。

実際、パワポの圧倒的普及にともなって、聞く側の「メモの仕方」が単調になっている。今日もそうだが、「要点」がスクリーンに映し出されるたびにそれをメモする人が約70%、話す内容を選り好みせず自分が可能なメモのスピードでひたすらメモし続ける人20%、まったくメモをとらない人8%といった感じなのだ。では残りの2%はというと、これはいわゆる理想的なメモ術とでも云うか、自分にとって重要な点+α(これは即座には判断できかねる重要事項といいたところ)をメモしつつ、話に触発されて閃いたことを別の紙というかノートの反対のページにメモをする、というスタイルなのである。

人間にとって考えるということは、読み、聞き、話し、書くことでしか深められないものだ。そしてその中心はやっぱり書くことである、といってもいいのではないか。折角お金を払ってセミナーに出ているのだから、メモを取らないと損だというのは本能的に理解出来るが、それであれば単なるレコーダーに過ぎない。聞き手が生身の人間であれば、問題意識を持って「なるほど!」と思えたことと「閃いた!」ことをメモすればよいのである。間断なく筆写し続けるのは、何も考えていないのと同じなのだ。
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