(葉月壱日 朔) 公共事業見直し  社会

民主党のマニフェストにあった公共事業の見直しの象徴であるヤッ場ダム(しかし、これは読めませんねえ)の中止を巡って、地元住民や流域の自治体から不満の声が大きくなっている。しかし考えてみれば、すぐわかることだ。

そもそも何十年も前の災害を根拠とした公共事業をおこなえば、日本中の河川がダムだらけになるし、国土がコンクリートで覆われてしまうという愚論をなぜ討議しないのか。自然災害をすべて防ぐ方法など人間が持っているはずがない。災害を少なくするのは物に頼る人間の心の隙を自然が襲うだけのことである。いわば油断である。起こるはずがないと思うのは人間のエゴである。

そして公共事業は全てがお金で処理されることである。建設業には仕事という資金が天から降ってくるし、地元住民には補償金という金が天から降ってくるのである。自らが汗を流した金でないだけに、その使い道は自然と放漫になる。田舎の道路造成で土地を売った者が金をどう使ってきたか、私は今までこれでもかと見てきたし、それで幸せになったという人を余り見たことがない。

新築の家を作ったが、そこには老夫婦が住むだけで、後を継ぐものは都会へ出て行った。その管理をするには余りに年を取り、やがてその御殿は朽ち果てていく。金を持った息子は高級車を乗り回し、パチンコ屋に日参する。そのパチンコ屋も人がいなくなり、倒産したパチンコ店が田舎にはゴロゴロしている。

公共事業のやり過ぎは、結局人の心を荒廃させるだけである。
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