次郎物語第三部下村湖人
+目次
一 運命の波
次郎の中学一年の生活も、二学期が過ぎて、新しい春がめぐって来た。入学試験に一度つまずいた彼は、もうそろそろ青年期に入ろうとしているのである。
青年期になると、たいていの人が、程度の差こそあれ、理想と現実との板ばさみになって、光明か暗黒かの岐路きろに立つものだが、読者が、これまで、いくぶんせっかちだと思われるほどの気持になって知りたがっていたのも、恐らく彼のそうした生活であったらしく私には思われる。で、私も、この巻では出来るだけ彼のそうした生活について語りたいと思っている。
だが、言うまでもなく、青年期の生活は、青年期だけで独立してはじまるものではない。青年次郎の生活を準備したものは、まさしく少年次郎であった。少年次郎の生活は、ちょうど山川の水が平野の川を流れて行くように、青年次郎の中に生きて行くのである。だから、少年次郎を知ることなしには、青年次郎の喜びも悩みもほんとうにはわからない。そこで私は、これからはじめて彼を知ろうとする人々や、これまで彼を知るには知っていても、彼の十五年間の生活の意味を、まだじっくりと考えてみる時間を有しなかった人々のために、ここで一応彼の過去をふりかえって、私の次郎観といったようなものを述べておきたいと思う。読者の中には、あるいは、それを無駄だと思う人があるかも知れない。しかし、それが無駄であるかどうかは、一応それに眼をとおしてから決めてもらっても、おそくはあるまいと思う。と言うのは、無駄なことを読むよりも、無駄なことを書くことの方が、はるかにより多くの時間を無駄づかいするものだということを、最もよく知っているのは、読む側の人ではなくて、書く側の人なのだから。
*
次郎の天性――くわしくいうと、彼が生れ落ちたときに、天から授かった生命の生地のままのすがた――が、どのようなものであったかは、むろん誰にもわかるはずがない。それは、おそらく、神様だけの胸に納まっていることであろう。およそわれわれが個々の人間の性質について知りうることは、その人間が、この世の空気を多少とも呼吸したあとのことなのである。そして人間は空気とともに運命をも呼吸するものだが、その運命は、人間の天性を決して生地のままにはしておかないものなのだ。
とりわけ、次郎はかなりきびしい運命の持主であった。しかもその運命は、生れてすぐの子供にとってはほとんどその生活の全部だともいうべき母乳が、母の乳房に十分めぐまれていなかったという事実にはじまったのである。もっとも、母乳の欠乏というようなことは、何も取立てて言うほど珍しいことではなく、世間には母の思慮深い処置によって、それを運命というほどの運命と感じないで育って行く子供も、ずいぶん多いのである。だから、次郎の場合、もし母の無思慮、というよりは、その生半可な教育意識が、乳の欠乏ということをきっかけに、つぎからつぎへと母としての不自然さの罪を犯してさえいなかったら、次郎の運命はあるいは全くちがったものになっていたのかも知れない。そう考えると、彼のきびしい運命は、母の乳房からはじまったと言うよりは、その乳房の二三寸奥の方からはじまったと言う方がおそらく正しいであろう。
ともかくも、お民のような母をもった子供が、生れ落ちた時に授かった天性をそのまま伸ばしていけるものかどうかは、すこぶる疑わしいのである。われわれは、これまで、次郎がしばしば怒り、悲しみ、あざ笑い、歎き、そしてさからうのを見て来た。また、時としては、疑い、悶え、省み、恥じ、そして考えこむ姿にも接して来た。彼は、勇敢であると同時に怯懦きょうだであり、正直を愛すると同時に策謀を好む少年であるかにさえ思われたのである。あるいは、そういうのが彼の本来の面目であったかもしれぬ。そして運命がたえずそれに糧を与え、彼という人間を一層彼らしく育てあげていたとも言えるであろう。しかし、また、彼が天から授かった性質はもっと純粋でなごやかなものであったのに、運命がそれをゆがめ、こねまわして、遂に彼ならぬ彼を作りあげてしまった、と言えないこともないのである。だが、そうしたことの判断は、所詮しょせん、神様だけにおまかせするより仕方がない。かりにその判断が我々に下せたとしても、過去の運命というものが我々の手で帳消しできない以上、また、かりに帳消し出来たとしても、帳消しにすることによって次郎が現在以上の人間になれると請合うけあえない以上、今さらとやかく詮議せんぎ立てしてみても、はじまらないことなのである。
次郎について、われわれの知っておかなければならないもっと大事なことは、神
二 無計画の計画()
「大丈夫かい、次郎君。」
大沢がうしろをふり向いてにっこり笑った。恭一もちらと次郎の顔をのぞいたが、その眼は寒く淋しそうだった。
日はもう暮れかかって、崖下を流れる深い谷川の音がいやに三人の耳につき出していた。水際に沿って細長く張っている白い氷の上に落葉が点々と凍しみついていたが、それが次郎の眼には、さっきから、大きな蛇の背紋のように見えていたのである。
「大丈夫です。」
次郎は、力んでそうは答えたものの、さすがに泣出したい気持だった。
「ひもじいだろう。」
大沢は彼と肩をならべながら、またたずねた。
「ううん。」
「あかぎれが痛むんかい。」
「ううん。」
「寒かあないだろうね。」
「ううん。」
次郎は、じっさい、寒いとは少しも感じていなかった。外套なしの制服で、下にはシャツ一枚だったが、坂道を歩くには、それでちょうどよかったのである。しかし、ひもじくないというのも、あかぎれが痛くないというのも、たしかに嘘だった。何しろ、今朝歩き出してから、弁当の握飯の外には水を飲んだだけだったし、足は足袋なしの下駄ばきだったのだから。
「もう少し行ったらきっと家が見つかるだろう。このぐらいの路がついていて、三里も五里も人が住んでいないはずはないんだよ。」
大沢は励ますように言った。次郎は答えなかった。すると恭一が急に立ちどまって、
「引きかえした方がよかあないかなあ。」
「さっきの村までかい。」
と、大沢も立ちどまって、
「しかし、あれからもう二里はたしかに歩いたんだぜ。」
次郎は、もうその時には、路ばたの木の根に腰をおろし、二人の顔を食い入るように見つめていた。
三人が、この冬の真最中まっさいちゅうに、「筑後川上流探検」――彼らはそう呼んでいた――をはじめてから、すでに四日目である。探検とはいっても、べつに周到な計画のもとにやりはじめたのではなく、三人とも地図一枚も持っていなかった。久留米までは汽車で来たが、それからは川に沿って路のあるところを、本流だか支流だかの見境もなく、ただやたらに奥へ奥へと歩き、そして、日が暮れそうになると、行当りばったりに、寺があれば寺、それがなければ農家に頼んで泊めてもらい、翌朝弁当を作ってもらって、一人あたりなにがしかのお礼を置いて来るといったやり方だった。何でも、第二学期の試験がすんだ日、大沢がたずねて来て雑談しているうちに、誰かが「背水の陣」という言葉をつかったのがもとらしく、自分で自分を窮地きゅうちに陥おとしいれて苦労をしてみるのも面白いではないか、という意見が出、更にそれが、「無計画の計画」という大沢の哲学めいた言葉にまで発展して、翌日から、さっそくそれを実行に移そうということになり、これも大沢の発案で、「筑後川上流探検」ということに決まったわけなのである。
旅費も、むろん、そんなわけで、十分には用意していなかった。もっとも、恭一や次郎にしてみると、許しも得ないで家を飛び出すわけにはいかず、だいいち一文なしではどうにもならなかったので、大沢の帰ったあとで、二人が父の俊亮におずおずその計画を語すと、俊亮は、
「次郎も行くのか。」
と、笑いながら、わけなく二十円ほどの金を出してくれた。それに、はたで聞いていたお祖母さんも、心配しいしい、恭一の財布にいくらかの小銭を入れてくれたので、汽車に乗る前には、大沢の懐にしていた分まで合わせると、三十円近くにはなっていたのだった。それを大沢が全部一まとめにして預かることになり、今日まで何もかも賄って来たというわけだが、それも、しかし、恭一の胸算用では、もう半分以下に減っており、そろそろ引きかえす方が安全だと思えていたのである。
大沢は、恭一がいつまでたっても返事をしないので、今度は次郎の方を向いて言った。
「どうだい、次郎君、進むか、退くか、今度は君にきめてもらおう。」
次郎は、今から二里の路を引きかえすのは大変だ、という気がした。それに、大沢の言った「進むか、退くか」という言葉が、いやに強く彼の耳に響いた。また、一軒家ぐらいは、もう間もなく見つかりそうだ、という気休めも手伝って、
「進みます。」
と、彼は元気よく立ちあがり、真先にあるき出した。
「多数決だ。」
大沢は恭一を見て微笑した。すると恭一も淋しく微笑をかえして、うなずいた。
「これからが、いよいよ無計画の計画だよ。」
歩き出すと間もなく、大沢がそう言って大きく笑ったが、恭一も次郎もそれには返事をしなかった。
それから十五六分も歩いたが、人家はむろんのこと、人一人にも出逢わなかった。そして、水音は白い泡だけを残して、しだいに闇をくぐりはじめた。路と川との間に、ところどころ杉木立があったが、その陰をとおると、大きな羽根をもった魔物にでも襲われているような気持だった。
「方角はどうなっているんだろう。」
恭一は心細そうにたずねた。
「さあ。」
と、大沢は、せまい空を仰いだが、二つ三つ淡い星が見えただけで、方角の見当は彼にもまるでつかなかった。
「とにかく、上流に向かっていることだけは、間違いないよ。」
彼は、のんきそうにそう言ってから、すぐ、どら声で校歌をうたい出した。すると山彦が方々からきこえ、急に賑やかになったようでもあり、かえって物すごいようにも感じられた。
「本田、歌えっ。次郎君も歌えよ。」
校歌の一節を一人で歌い終ると、彼はどなった。次郎は、しかし、歌う代りに、急に立ちどまって叫んだ。
「ああっ、見つかった、見つかった。……ほら。」
路は、その時、川から二三町ほど遠ざかっていたが、路と川との間には刈田がめずらしく段々になってひらけており、そのずっと向こうの、次郎が指ざした山の根には、小さな藁屋根が一つ、夕闇の中にぼんやりと見えていたのである。
「あれ、家かな。」
と、大沢も立ちどまって、じっとその方を見ていが、
「人の住む家にしちゃ小さいぞ。それに燈あかりもついていない。」
「僕、行ってみましょうか。」
次郎はもう路をおりかけた。
「よせ、よせ。」
と、大沢は、いったんとめたが、
「そうだなあ、いよいよ家がこの近くに見つからなかったら、肥料小舎ごやでも何でもいいから、そこに泊ることにしよう。……とにかく探検しておくんだ。」
三人は畦あぜ道の枯草をふんで急いだ。行きつくまでには五分とはかからなかった。大沢の想像どおり、それは小舎だったが、真暗な三坪ほどの土間の半分には、藁がいっぱい屋根裏に届くほどつんであり、入口には戸も立てられるようになっていた。
「寝るぶんには、これだけ藁があれば十分だね。」
と、大沢は、しばらく考えていたが、
「しかし、ひもじいだろう。僕、もう少し歩いて家を見つけるから、それまで藁の中にもぐって寝ていたまえ。」
そう言って、彼は、さっさと一人で出て行ってしまった。
彼の姿が見えなくなると、恭一と次郎とは、急に寒さを覚えた。
「僕、そこいらから枯枝を拾って来ようか。兄さん、マッチある?」
「ないよ。大沢君が一つ持ってるきりなんだ。」
「チェッ。」
次郎は思わず舌打をした。
「マッチがあったって、こんなところで火を焚たくと危いよ。」
恭一はたしなめるように言った。しかし、彼も飢えと寒さとで、もうがちがちふるえ出していた。
「寝っちまえ。」
次郎は、だしぬけに積藁にとびつき、すばしこくそれをよじ上った。そして一人でごそごそ音を立てていたが、
「兄さん、ここ温かいよ。」
と、もう一尺ほども藁をかぶっているような声だった。
「寝っちまっては大沢君にすまないなあ。」
そうは言いながら、恭一もたまりかねたと見えて、すぐ上って来た。
「ここだよ、兄さん。……二人いっしょの方がはやく温まるよ。」
次郎が藁の底から呼んだ。二人は抱きあうようにして寝た。すると、寒いどころか、しだいにむれるような温かさが藁の匂いといっしょに二人を包んだ。
「こんな旅行、面白いかい。」
恭一がしばらくしてたずねた。
「うむ、面白いよ。……だけどひもじいなあ。」
「僕もひもじい。こんなひもじい目にあったこと、これまでにないね。」
次郎には、しかし、ひもじいということに二通りの記憶があった。その一つは普遍のひもじさで、もう一つは、自分だけがおやつを貰わなかった時のひもじさだった。彼は、今でも、何かにつけ後の意味のひもじさを思い出す。「愛せられる喜びから愛する喜びへ」と心を向けかえたとはいっても、それはまだ十分に彼の血にはなりきっていなかったのである。で、つい、(僕は、もっとひもじい目にあったことがあるんだぜ)と、そんな皮肉を言ってみたい衝動にかられた。彼は、しかし、すぐそれを後悔した。そして、
「大沢さんどこまで行ったんだろう。」
と、べつのことを言った。
二人は、寝床が変り過ぎているのと、ひもじいのとで、しばらくは眠れそうにもなかったが、体が温まるにつれて、ついうとうととなっていた。すると、
「本田、本田――」
と呼ぶ声が、どこからかきこえて来た。恭一は、びっくりしてはね起きたが、その時には、大沢は、もう藁の上にのぼっており、真晴な中をごそごそと手さぐりしているのだった。
「すまんかったなあ、つい寝ちゃって。」
恭一が闇をすかしながらそう言うと、大沢はその声の方にはって来ながら、
「十五六分も行くと、小さな村があったんだ。しかし、とても泊めてくれそうにないよ。どうも僕の人相が悪いらしいんだ。しかし、やっと駄菓子だけは手に入れて来た。今夜はこれでがまんするんだな。」
それから、ばさばさと紙の音をさせていたが、
「次郎君は、ねちゃったのか。――起こしちゃかわいそうかね。」
次郎も、しかし、その時には眼をさましていたのである。彼は、
「僕、おきています。」
と、恭一の肩につかまりながら、起きあがった。
三人は、それから、大沢のもって来た新聞紙の袋に、かわるがわる手をつっこんでは駄菓子を食った。円いのや、四角いのや、棒みたいなのがあったが、色はむろんまるで見えなかった。たいていはぼろぼろのものだったが、その中に、固くて黒砂糖の味のするのがわずかばかりまじっていた。しかし、どれもこれもうまかった。三人とも、ものも言わないでむさぼり食った。袋がからになると、大沢が、
「水もあるよ。」
と、次郎の手に水筒を握らせた。次郎はぐっぐっと息がきれるまで飲んで、それを大沢にかえした。すると大沢は今度は恭一の手にそれを渡した。
「うんと飲めよ、僕はもうたらふく飲んで来たんだから。」
それでも、恭一の飲み終ったあとを、彼はからになるまで飲んだ。そしてそれがすむとすぐ、三人はかたまって藁の中にもぐりこんだ。
「僕一人で行ったのが、どうもいけなかったらしいんだ。」
と、大沢は藁束の落ちつきの悪いところをもぞもぞと直しながら、
「僕の人相では、やはり次郎君のような可憐かれんな感じがしないんだね。年をとっていると損だよ。こんな時には。」
恭一が吹き出した。次郎は、これまで三晩とも、大沢が宿の交渉をはじめると、女の人がきまったように自分の方を見ながら、何かと同情するようなことを言ってくれたのを思い出し、くすぐったいような、恥ずかしいような、そして何かみじめなような気持になるのだった。
「本田だと、僕よりはいくらか可憐に見えるかもしれんが、それでも、中学も四年になると、やはり物騒視されるね。」
と、大沢は、やっと体が藁の中に落ちついたらしく、静かになって、
「僕たちが、三晩とも無事に泊れたのは、恐らく次郎君のおかげだったんだよ。僕の交渉が成功したとばかり思っていたんだが。」
恭一が、ふふふと笑った。
「考えてみると、やはりそれも無計画の計画だったんだ。人生って妙なもんだね。」
大沢はしんみりした調子でそう言って、急に口をつぐんだ。
「そりゃあ、どういう意味なんだい。」
恭一が、しばらくして、思い出したようにたずねた。
「人生を動かして行くほんとうの力は、案外僕たちの知らないところにあるっていう気がするんだよ。」
「ふうむ。しかし、そうだからって、無計画の計画ばかりでもいけないだろう。」
「そりゃあ、むろんだ。今度の旅行はべつとして、何事にも計画の必要なことは、いうまでもないさ。しかし、計画には限度があるよ。いや、人間が頭でやった計画なんてものは、もっと大きな力、自然というか、神というか、そうした大きな力の発動に、あるきっかけを与えるに過ぎないんだ。それを忘れて傲慢になっちゃあいかんと思うね。」
恭一は藁の中でうなずいた。そして、いくらか冗談のように、
「君がそんなことを言い出すようになったのも、やはり無計画の計画の一つだろう。」
「たしかにそうだ。その意味でも次郎君に感謝していいね。」
次郎は、二人の言っていることが、まだはっきりのみこめなかったところへ、だしぬけに自分の名前が出たので、何か変な気がしながら、
「どうしてです。」
「つまり、君の可憐さが、僕たちのこの三四日の生命をささえて来たことになっているからさ。」
次郎は、不平を言っていいのか、喜んでいいのかわからなかった。すると恭一が言った。
「しかし、自分の可憐さを自覚したら、おしまいだね。」
「そりゃあ、そうだ。」
と、大沢は何か考えているらしかったが、
「じゃあ、この話はもうよそう。」
次郎は、何かいやなあと味を残されたような気持だった。しかし、大沢も恭一も、それっきり静かになってしまったので、いつの間にか自分も眠りに落ちていった。

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