アンコールにお応えして(9)只見
朝8時半に家を出て相棒は何も口にしていない
こちらは薬を呑む都合上朝飯は済ましてきた
何か食べるかと聞くと『いやっ』と言い続けてきた午前中
午後2時只見の『五十夢(いとむ)』という食堂に入った。
桧枝岐で1時間前に予約を入れておいた。
これから行くから開けて待ってて
筆者の頼んだのは生姜焼き定食800円+坦々麺(半分)350円=1,150円
相棒の頼んだのは坦々麺大盛650円+100円=750円
誰かの言葉を借りなくともかなり良心的な値段設定である。
相棒に感想を聞くと
あれだけ午前中食べるのを拒み続けてきたのに
大盛頼んだのに全然足りなかった。
よっぽどお腹が空いていたのだろう。
無理も無い。
昨夜から何も食わずの旅、
途中ジョギングランナーと競争したりエネルギーの消耗も甚だしい。
何となく気付いてはいた。
午前中あれだけ軽かった口も無口になり黙りこけてしまった。
省エネモードにしてじっと動かない、至極不機嫌そうなのがわかる。
腹を空かして食べたのに盛りが少ない。
ま、勝手がわかったので次回はどう出るかと
思いきや
1日夜の無尽で『今日五十夢で食べて来ました』
2日後の話である。
開いた口はふさがったが、意外とそう云う所が憎めない。
『五十夢(いとむ)』は南会津町南郷と只見町福井の間に位置し
大雑把ではあるが『湯ら里』の近くにある。
他には、福井地区の『喜幸飯店(きこうはんてん)』の
『からあげ(甘酢掛け)定食』がお奨めである。
最近では田島が本店の『菜華楼』が超お気に入り。
田子倉ダムの上に登ってみる。
かつては『キングダム』と呼ばれはしなかったが
今なら間違いなく呼ばれていたことであろう。
何故か突然只見町の歴史
只見は古くは養蚕、塩の生産などで栄えた場所で鉱山も多くあった所である。
しかし第二次世界大戦の終結後当町を流れる只見川の電源開発は急速な進展を見て
今はダムが町の名物である。
田子倉ダムを建設中の昭和30年代前半、只見町はダム建設に沸き
ダム建設作業員、及びそれを支える飲食店関係の人々を含めた人口は3万人を超え、
只見町は市制施行へと、一気に機運が盛り上がったが、
ダム建設終了と共に人口が減り続け現在に至る。
只見川沿いを下流に下った会津塩沢駅及び河井継之助記念館がある塩沢地区は、
かつて地名の由来となった塩が産出され製塩が行われていた。
1889年4月1日 - 町村制施行により、
只見村・田子倉村・叶津村・蒲生村・塩沢村・石伏村・寄岩村・十島村が合併して
南会津郡伊北村(いほうむら)が成立する。
同時に郡内で下記の通り町村合併が行われる。
布沢村(坂田村・布沢村が合併)
小梁村(梁取村・小林村が合併)
八幡村(大倉村・二軒在家村・塩ノ岐村が合併)
朝日村(亀岡村・荒島村・熊倉村・福井村・黒谷村・黒沢村・小川村・長浜村・楢戸村が合併)
1940年11月5日 - 布沢村・小梁村・八幡村が合併し、明和村となる。
1952年11月3日 - 伊北村を只見村と改称。
1955年7月20日 - 明和村と合併して新たな只見村となる。
同村とは隣接しておらず、飛地合併となった。
1959年8月1日 - 朝日村を編入、即日町制施行により只見町となる。
旧明和村域の飛地状態も解消。
1968年5月1日 - 南郷村大字和泉田の一部を編入。
1994年11月19日 - 千葉県柏市と「ふるさと交流都市提携」を結び、姉妹都市となる。
このとき、柏市は青森県柏村(現:つがる市)とも提携を結んだ。
只見町の紅葉は例年であれば10月下旬
今年は一週間から10日ほどの紅葉の遅れが出ていると私は推測
尾瀬も観音沼もそして只見もその通りとなっている。
只見町から小出に向かっての道も素晴らしい紅葉の連続
巌山が多く真紅の赤の紅葉が目立つ
かつて幻のピザ屋を求めて3度ほどこの辺りを彷徨った事は記憶に新しい

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