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【今日の歌】
瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ
崇徳院(77番)
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【口語訳】
川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれ
る。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれて
も、いつかはきっと再会しようと思っている。
【作者】
崇徳院(すとくいん。1119〜1164)
鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に5歳で天皇の位を譲り受けまし
た。18年の在位の後に近衛天皇に譲位し、鳥羽上皇(本院)に対
し新院と呼ばれました。鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、
後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立。戦となります(保元
の乱)が破れ、讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しまし
た。在位中に藤原顕輔に『詞花和歌集』を編纂させています。
【鑑賞】
この歌は、崇徳院が1150年に藤原俊成(しゅんぜい。定家の父)
に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。
山の中を激しく流れる川の水が、岩に当たって堰き止められ、
岩の両側から2つに分かれて流れ落ち、再びひとつにまとまる。
その様子を離ればなれになった恋人への想いに重ねて詠う激しい
一首です。
「障害を乗り越えても必ず逢おう」という気持ちが込められてお
り、激しく燃えさかる情熱と、強烈な決意のようなものが感じら
れます。
◆◇◆
もちろんこの歌は恋の歌です。しかし歌の作者・崇徳院は、18
年間位についたものの、当時の鳥羽上皇に強引に譲位させられま
す。さらに息子・重仁親王を天皇にと願ったものの、やはり上皇
の考えで後白河天皇に位を奪われます。そして上皇の死後、後白
河天皇と、どちらの皇子を天皇にするかで争って破れたのが「保
元の乱」でした。
後世には、崇徳院の不遇な生涯とこの歌を結びつけ、強引に譲
位させられた無念の想いが込められている、と解釈する研究者も
います。それほど激しい想いを感じさせる歌でもあります。
崇徳院は乱に破れて讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流さ
れた後、後白河天皇を呪い、ヒゲや爪を伸び放題に伸ばして恐ろ
しい姿になりました。調べに訪れた朝廷の使いは「生きながら天
狗と化した」と報告し、また今昔物語では西行が讃岐を訪れた際
に怨霊となって現れます。
◆◇◆
さほどの激しい人が詠んだ歌で、「瀬」や「岩」といった強烈
な語句も見えます。しかし、戦乱の世を知らない我々は、離れば
なれになった恋人との再会を誓う歌として詠むのがロマンチック
でしょう。拉致問題で北朝鮮から帰還した人々も、一時は今生の
別れを覚悟したかもしれません。しかし、生きてさえいれば、ま
た喜ばしい再会がめぐってくることもあるでしょう。
この一首は、そういう希望を詠んだ歌ではないでしょうか。
崇徳上皇が流された讃岐の地は、現在の香川県坂出市。瀬戸内海
を望む海辺の街で、本州と四国を結ぶ、瀬戸大橋の基点です。
坂出市の崇徳上皇ゆかりの史跡には、流された上皇が暮らした
「雲井御所」(林田町)や、遺体が葬られた白峯山などがあります。

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