2010/4/2

嵐だった。  季節

朝、激しい風の音で目が覚めた。ゴーゴーと風が鳴っていた。

この風で、桜はどうなるだろうと気になった。

風が収まってみると桜は大丈夫だった。まだ満開ではなかったので、花はしっかり枝に付いていたのだろう。

「桜の季節に嵐」というと、すぐに思い浮かぶ。

「花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ」

いうまでもなく、井伏鱒二の訳詩。

于武陵「勧酒」
勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離
 
 この盃を受けてくれ
 どうぞなみなみつがしておくれ
 花に嵐のたとえもあるぞ
 さよならだけが人生だ

井伏鱒二は私がいい年になるまでご存命だった。1993年に95歳で亡くなったそうだ。井伏鱒二を巡る人々として、太宰治、壇一雄や開高健の名も思い浮かぶ。皆、井伏鱒二より先に亡くなった。

井伏氏は荻窪に住んでいた。私も一時荻窪にいたので、親しみを覚えた。

「荻窪風土記」と言う作品もある。ほとんど忘れてしまったが、ひとつだけ記憶にあるのは、昔、荻窪で、品川辺りを通過する汽車の汽笛が聞こえたというエピソード。

昔はそれほど静かだったという。工場も自動車もない。家の中にモーター音もない。街頭スピーカーもなければ、音楽を流すものもない。そうかもしれない。でも「ほんとかな?」と、今でも思う。

花の季節というともう一つ思い出す漢詩。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 寄言全盛紅顔子 應憐半死白頭」

年年歳歳花相似たり、歳々年々人同じからず。言をよす、全盛の紅顔子、正に哀れむべし、半死の白頭翁。

長い詩の一部だという。

「年年歳歳花相似たり、歳々年々人同じからず」をしみじみと感じることもある。

私は「毎年毎年花は同じように咲くが、人の世は年とともに変わり、生まれる者があれば死ぬ者があって、同じ顔ぶれは続かない」という意味に取っている。

「花は毎年変わらないが、自分はどんどん歳を取って白髪頭になってしまった」という意味に取ると、ちょっとつまらない。

前者の方が人生の無常を感じる。毎年の桜を見上げるたび、そういう思いに捉われることはありませんか?

もうひとつ、花=春といえば「春眠暁を覚えず」ですね。

春眠不覺暁 處處聞啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少

春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つることを知る多少

そういえば、これも花に嵐だ。

それにしても、覚えている漢詩が春ばかりなのは何故だろう。

つまり、新学期「漢文」を初めて習って、その印象が強かったということかな。

さて、明日は新横浜の桜を眺めて、マリノスの「サクラサク」を楽しみにすることにしよう。
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