バトル・ロワイアル
2000年東映作品
ジャンル:アクション
監督:深作欣二
脚本:深作健太
出演:藤原竜也、前田亜季、山本太郎、安藤政信、ビートたけし、柴咲コウ、栗山千明
日本映画として世界に誇れる作品の多くは文芸的なものが多い。黒澤監督の作品にしろ北野武監督にしろ内容的にも映像的にも世界的に受けがいいのはそういう理由があるのだろう。
しかし、ハリウッドやヨーロッパの映画で全世界でヒットしているものは単純に「娯楽」だけが目的のいわば「使い捨て」映画のような作品が多い。
いや、黒澤監督にしろ北野監督にしろ実際に観てみると正真正銘「娯楽映画」なのだが「娯楽」への追求の仕方に才能があるのだろう。だから芸術的だと錯覚しているだけかも知れない。
とにかく、ハリウッド映画などは徹底的に「娯楽」という面に重きを置いている。「娯楽」をただ単に追求しているだけな訳だからその「時」の社会の情勢や流行を「面白おかしく」映画に盛り込めば客は喜ぶ。しかし、そうする事によって映画に賞味期限がついてしまうのも当然。現に多くは「その時」だけのものであり、すぐに忘れ去られてしまうものがある。「使い捨て」とはつまりそういう意味である。
訂正しよう。黒澤作品も北野作品も全世界の「映画」とつくものはぶっちゃけ全部「使い捨て」だと思う。
究極論を言えばいかにその「時」だけ楽しませるか?というのが映画のありかたではないだろうか。そもそも私は個人的に映画は「娯楽」だと思っているのでなおさらそう思う。
そこで「娯楽」とは何?と聞かれたら私は迷わず「暇つぶしの手段」と答えるだろう。ゲームにしろプロレス観戦にしろ映画にしろ、結局は暇つぶしなのだ。
では暇つぶしって何??
うーん、何もする事がない時に時間を経過させる手段。やる事ないからとりあえずゲーム。とかとりあえず映画。
だから、その場だけ暇がつぶれればいい。その場だけ楽しく過ごせたらそれでいい。映画を観てとりあえずその時間「だけでも」楽しませてくれればそれで充分なのである。それ以上は望む事はないし、望んでもいけない。
ハリウッド映画というものにはそういう精神があるのかも知れない。アメリカ人は遊ぶという事がうまいのである。
逆に日本人は遊ぶのが下手なのである。
これがよく表れるのが「旅行」という娯楽であろう。日本人というのは例えば海外旅行に行くとする。せっかく海外にきたのだから少しでも多くの観光地を巡ろうと欲張る。結果的に一日のスケジュールがびっしりと詰まるわけで、今日中にこことあそことあっちも観光して・・・とまるで仕事をしているみたいだ。
一方、外国人というのは旅行にでかけるとそこでのんびりとする傾向がある。ゆっくり一日日向で読書したり昼寝したり、観光地を観にいったとしても無理のないようにのんびりとしているのである。
もちろん私の偏見かも知れないがきっとそうだろう。
私自身たまの休日、仕事がないからゆっくりとしようと思っても、ゆっくりできるうちにあれもやってこれもやって、どこどこ行ったりと・・・なかば強迫観念のようにこの「時間」が「もったいない」から「何かをしよう」と感じてしまう。
遊びが下手という事は「娯楽」を追及するのも難しい事。従って「娯楽」である「映画」を作るのも日本人のほうが下手なのであろう。
私は業界の人間ではないのでよくは知らないが、映画の撮影スケジュール一つをとってみてもハリウッドと日本では違いが大きい。ハリウッドでの映画創りというものにももちろんデッドラインはある。しかし、箱をあけてみるとその期間が長かったりもする。何年もかけて準備をして撮影して編集して・・・3年越し、5年越しの映画などは当たり前のように存在する。
しかし日本映画はどうだろう。日帰りロケや深夜までの撮影というのをよく聞く。まあアメリカでも夜のシーンは深夜までかかる事もあるだろうが、大抵はみなさんのんびりとしてて、「じゃあまた明日にしましょ」と早く切り上げるというのを良く聞く。ようは例え仕事だとしてもアメリカ人はいかにその仕事を楽しむかというのを追及している。一方日本人はデッドラインが近いからきりつめてハードなスケジュールを無理にこなそうとする。これは単に仕事としてこなしているだけにすぎない。
仕事としてこなそうとするから変に固苦しい作品になってしまう。
逆に日本の映画スタッフにも充分な時間と予算を与えれば素晴らしいものができるのであろうが・・・根本的にこの国が「娯楽」という無益なものに大枚をはたくわけがない。と思う。ま、金出しているのは実際には映画会社なんだけれどね。
何が言いたいかというと、そんなそれぞれの国の背景を考えた上で「使い捨て」目的で作られた作品が公開された時にどうなるか?という事である。
当然日本映画というのは本当に「使い捨て」になってしまうのである。変なアイドル映画とかわざとらしい「娯楽」映画で話題だけ先行して中身が伴ってない「面白くみせよう」と仕事的に処理したものが多い。結果、その場だけ「あ〜なんとなく面白かったけど、それだけ」というものが多くなる。
これがハリウッド映画になると製作者の楽しみながら創ったという思いが伝わってきて最高の娯楽映画になる場合が多い。多少、つまらない作品でも場の盛り上げ方がやはり旨い。結果、人の心に残る「使い捨て」映画が誕生するわけだ。
こんな事書くときっとハリウッド映画が面白いものばかりなのは、面白い作品しか日本では公開しないからだと反論する人もいるだろう。
しかし、では日本でのハリウッド映画の年間上映本数はどれくらいだろう。それに比べて日本映画の年間上映作品のうち面白いと思うのは何本だろう。いや、それでもそもそもハリウッドが年間に製作している映画のほうが半端な数ではないと反論されるだろう。
少なくとも私がアメリカに住んでいる時に劇場で公開されていたハリウッド映画はそのほとんどが面白かったように感じる。中には何故これは日本では劇場未公開でビデオのみの発売になっているんだろう?もったいない・・・と思うものもある。
日本映画で外国に誇れるような「娯楽」を追及した映画は一生無理なのだろうか?そんな思いが私の中にずっとあった。
確かに最近の日本映画には勢いが戻りつつある。しかし、やはり今一歩なのである。所詮はそんなものだろう。
しかし・・・
20世紀も終わろうとしていた時にようやく日本が世界に誇れるであろう「完全に娯楽だけを追及した作品」があらわれた。
その名も「バトル・ロワイアル」。
しかし日本という国はやはり心が狭いとしかいいようがない。本作を問題作とみなして国会で映画の内容が取り上げられて社会的な影響がどうたらとか教育的な問題がどうたらとか・・・
そもそも「バトル・ロワイアル」とはなんだろうか?
プロレスをよく観戦する人ならバトル・ロイヤルは聞き覚えのある単語だろう。実際、この映画の原作となった高見広春の「バトル・ロワイアル」(太田出版)の前口上でもこの事について言及されている。というより多分この原作者は大のプロレスファンなのであろう。実際、登場人物の名前がレスラーからとっているであろうものもある。更に原作にあるかどうかは分からないが映画版には
第三条(BRの方針)・・・BRの全ての対象者は明るく、楽しく、元気に戦わなくてはならない。
〜「バトル・ロワイアル」パンフレットより抜粋〜
とあるがこれは全日本プロレスの「明るく、楽しく、激しいプロレス」のパロディだろう。
バトル・ロイヤルというのはリングの上にいる選手が全員敵で時には何十人も一斉にリング上で戦う。そして最後の一人になるまで戦い続けて勝者を決める試合方式の事である。
一方、本作「バトル・ロワイアル」とは?
強い大人を創るため、毎年一回、全国の中学校から厳選なる抽選の結果選ばれた一校の卒業生クラスが無人島に放り込まれて最後の一人になるまで殺し合わなければならない法案の事をいう。生徒達には一人一人、所在地を本部が把握できるように「ガダルカナル2号」(なんちゅーネーミングだ!)という首輪がつけられる。首輪には生存を確認するための心拍数を把握するシステムや不信な動きをした時、無理に首輪を外そうとした時に爆破する仕組みになっている。生徒達は水と食料と武器を与えられる。
制限時間は3日間。3日経過しても生存者が一人以上の場合も首輪の爆破装置が作動し、優勝者はなしという事になる。いかなる理由があろうとも優勝者はかならず一人でなければならない。
ビートたけしは劇中全体をとおして狂気じみた教師を演じるとともにコミカルな面も見せている。このギャップがまた気の狂った人物像を醸し出していて怖い。
ちなみに原作は
「は〜い皆さん今日は殺し合いだぞ〜」というようなことを明るく言い出す先生がいたらコワいな、〜中略〜その先生のイメージが「金八先生」の武田鉄也さんだったもんだから、天啓を与えてくれた武田さんに敬意を表して、やはり中学生、同時に、パロディの要素も残しました。
〜「バトル・ロワイアル」パンフレットより抜粋〜
だそうで、実際に原作のほうでは先生の名前も坂持金発とパロッている。ただ映画化の際にはこの教師の名前はキタノに変更されている。
これについては映画では原作にあったパロディ的な教師像を避けるためであったからだそうです。そもそも深作監督が最初にイメージしていた教師のキャラクターのイメージは素の北野武だったそうです。しかも役名も北野武だったそうです。しかしそれはさすがにやりずらいという事で最終的にカタカナで苗字だけという事になったらしい。
そしてもう一人注目すべきキャラクターは山本太郎演じる川田章吾だろう。三年前の大会優勝者なのだが再びこの惨劇の場に参加する事になり・・・多分劇中で一番おいしいキャラだろう。
しかしでも、この映画って別にR指定にするほどのものでもないと思うが・・・エルム街など一連のハリウッドホラー作品のほうが余程グロテスクだと思うのは私だけだろうか・・・それともホラー映画はリアルではないからいいのか、殺人鬼が人間かブギーマンかの違いで世間的な捉われ方が180度変わってしまうのだろう。
とにかくパワフルな映画であった。これならハリウッドの娯楽映画にも負けない底力をもっているだろう。冒頭で述べた私の考えを覆す作品でもある。ようは面白いものはどんな状況下にあっても出てくるものであるという事だろう。
そしてどんなに批判されようともそれを乗り超え何の躊躇もなく作品を世に出した深作監督と東映も偉大である。
映画を鑑賞した今、私も原作を手元に置き読む事にした。
実は今まで興味はあったが原作には手をだしていなかった理由がある。それはこの作品のあらすじを読んだときにS・キングの「死のロングウォーク」に内容が似ていると感じた事だ。
この「死のロングウォーク」は私の好きな小説の一つなのだが、ある年齢に達すると参加しなければならない競技があり、それがロングウォークなのである。競技のルールはただひたすら歩き続ける事。定められた時速よりも遅くなるとペナルティーになり警告を受ける。警告を三回されるとその場で失格、射殺される。しかし一定時間経過し、それまでの間警告をうけていない場合は一回分の警告が解除される。これを最後の一人になるまで何日でも続けなければならない。優勝者はどのような願いでも叶えてもらえるという特典を与えられる。
最終的には一人しか助からない。今まで協力して励まし合ってきた仲間さえも蹴落とさなければならないという共通のムードが両作から流れている。
しかし映画を観て、この作品の魅力に圧倒され、本も読む事にしたのだ。
とにかく日本映画の歴史に残る作品である。
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