2005/5/6

漫画家・雑賀陽平氏追悼  マンガ

*漫画家の雑賀陽平氏も尼崎市のJR脱線事故の犠牲者でした。
一瞬、どういうマンガの人だっけ?と思いましたが、「漫金超」の雑誌名で思い出しました。「漫金超」はよく読んでいました。ご冥福をお祈りします。

(ニュース)
漫画家・雑賀陽平さん、尼崎事故で風刺とともに散り

 兵庫県尼崎市のJR脱線事故で犠牲になった兵庫県西宮市の石井利信さん(55)は、東京・銀座の画廊「東邦アート」の大阪支店長として各地を飛び回る一方、若いころは「漫画家・雑賀(さいが)陽平」としても活躍していた。専門誌で、いしいひさいち氏らとナンセンスギャグ漫画を競ったほか、夕刊フジ「関西版」や週刊誌に作品を連載していた。
 石井さんは神戸市生まれ。少年時代から漫画を描くことが好きで、大学では洋画を学ぶ一方、漫画家として活動。故・手塚治虫氏が発行人を務め、「火の鳥」を連載していた漫画専門誌「COM」の昭和46年10月号で「月例新人賞」を獲得、プロデビューした。
 得意としたのは、4コマやコマ立ての風刺漫画。大阪の出版社が出した同人誌「チャンネルゼロ」や専門誌「漫金超」に、3〜4ページにわたる漫画を掲載、いしい氏をはじめ、ひさうちみちお、大友克洋両氏らと作品を競っていたほか、昭和50年代後半には一時、小紙でも描いていた。
 神戸松蔭女子学院大講師で、漫画評論家の村上知彦氏は「スターウオーズのパロディーなど、SFや恐竜が出てくる新鮮な作品だった。風刺の効いた漫画は、外国人受けしたようで、フランス人の漫画家が来日したとき、石井さんの作品を気に入ってヨーロッパの雑誌で紹介したことがある」といい、いしい氏も「直接、お会いすることはなかったが、かなりユニークな作品を書く人だった」と振り返る。
 20歳代後半で同社入社後も大阪支店で油絵などの展覧会の企画や営業などを担当しながらも、時間を見つけては漫画を描いていたという。
 「専門の油絵は絶対見せてくれなかったけど、漫画は掲載誌などをときどき見せてくれた」と入社以来、一緒に働いてきた同僚は話す。
 その後も、週刊誌や新聞に作品を掲載していたが、約15年前、大阪支店長に昇格してからは、漫画の世界からは次第に足が遠のき、画家や百貨店との交渉などに追われていた。
 前出の同僚も「仕事柄、1年の3分の1以上が出張で、まとまった休みをほとんど取らなかった。まじめで細やかな対応ができ、画家の先生からの信頼も厚かった。ただ、売りたい絵と、営業的に売らなければいけない絵との間にずれが生じ、葛藤もあったはず」と話す。
 そんな石井さんの心の支えとなっていたのは、やはり漫画だったのか。自宅玄関には妻(54)と2人の息子を描いた漫画が飾られ、今年の年賀状にも家族と愛犬のダックスフントのユーモラスな似顔絵が描かれていた。同僚らは毎年、石井さんから年賀状が届くのを楽しみにしていた。
 仕事に追われた石井さんだったが、今年3月末、妻と2人で山口・萩へ旅行に出かけた。2人での旅行は新婚旅行以来初めてだったという。
 同僚は「子供もひとり立ちし、今まで考えられなかったような時間の過ごし方もできるようになったと喜んでいたところだったのに…」と残念がった。
(夕刊フジ) - 5月6日17時2分更新

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