2010/8/23

『何も変えてはならない』  映画

僕としては『コロッサル・ユース』以来のペドロ・コスタ監督の映画体験となったが(間に作られている短編作品は未見なので)、『コロッサル・ユース』を見た時、映画としての完成度という点では(画面の達成度など)『ヴァンダの部屋』を越えるものなのかどうか、判断がつかなかったのだけれども、そうか、ペドロ・コスタってこういう「主題」っていうのか、「物語」をやりたい人なんだなあ・・とよりはっきりしてきたとは思った。その主題というのは、「疑似家族」ということなのだけど、思えば、そもそも映画(とか演劇)作品において、役者が父になったり母になったり子供になったりするのは皆、「疑似家族」であるわけだし、あるいは、監督とカメラマンとか、監督と編集マンとかいうスタッフ間の関係というのも、いわば作品という「子供」を生み出すために、疑似的に「家族」や「夫婦」の関係になっていると言えるのだけど、『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』で描かれたストローブ=ユイレというのがその点で特異な存在だと思えるのは、多くの映画作品で監督と編集マンが擬似的に「夫婦」になるのはあくまで作品を生み出すために制作期間の時だけそうなるのであって実際には「夫婦」ではないわけだが、ストローブ=ユイレの場合は本当の「夫婦」でもあったりもすることだろう。つまり、映画作品を生み出すための創作という点でも、実際の人生という点でも、ストローブ=ユイレは「夫婦」なのであり、まさに「映画」(という虚構世界の創作活動)と「人生」が見事に合体してしまっているのだ。その、ストローブ=ユイレという、創作活動においても実際の人生においても「夫婦」である映画作家の特異的なあり方のクラクラするような魅惑を、『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』は描こうとしているのだと思うが、だからこの作品はまさにドキュメンタリーとフィクションが共存するドキュメンタリー(もしくは、ドキュメンタリーとフィクションが共存するフィクション)という、ペドロ・コスタがめざすところの映画の形を理想的に備えているのだと言えるのではないかと思う。そして、実際にも夫婦であるストローブ=ユイレを描いた『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』が、「疑似家族」を描いた『コロッサル・ユース』と対になっていることも、すぐに思い当たることだろう。
そして、今度の『何も変えてはならない』である。まあ、なるべく事前の情報とかはあまり入れないようにして見たいので、ほとんど事前に批評とかは目を通さないで見にいったわけだけど、見る前の予測では、もっとジャンヌ・バリバールという人、個人のみを追いかけたもので、撮っている側のペドロ・コスタと、被写体のジャンヌ・バリバールが擬似的に「夫婦」的な関係を築いて行くという、いわばドキュメンタリーというのはもっと撮る側と被写体とが緊張関係にあるものであるはずで、「夫婦」みたいに関係性が築けてしまうなんて反則ではないか・・とつぶやかざるを得なくなるような映画なのではないか・・とか、推測をして見に行ったわけだが、そういう反則的な部分(ペドロ・コスタとジャンヌ・バリバールが擬似的な「夫婦」みたいになって行くという)もあったのだが、それだけでなく、そもそもジャンヌ・バリバール個人を追いかけているのではなくて、ジャンヌ・バリバールと一緒に音楽を作る仲間達の姿がとらえられていて、まさに音楽のバンドという「疑似家族」を描いた映画で、見て即座にハワ−ド・ホークスの映画を思わないではいられないものだったのだけど(実際、後でこの映画についての批評とかを読んだら、当然のように、ハワ−ド・ホークスの名前が出て来ていて、やっぱりそう連想しないではいられないように作っているんだなあと納得するほかなかったのだけど)、しかし、とにかく、『コロッサル・ユース』で感じた、ペドロ・コスタという人が描こうとしている「主題」というのか、「物語」は「疑似家族」なんだなあということが、ますます明確になって来たと言うしかないのではないだろうか。(なお、余談だけど、僕個人としては、ホークスの音楽ものだったら、『教授と美女』よりもむしろそのリメークの『ヒットパレード』のほうが、そのゆるさが好きだったりするが。)
しかし、なんでもこの『何も変えてはならない』というタイトルはブレッソンの言葉が元になっていると言うし、画面作りにおいてはブレッソンのように厳格とも言えるペドロ・コスタであるのだけど、やろうとしている「物語」は「疑似家族」ものであり、もしかしたらそういうやろうとしている「物語」自体はホークスやマキノの次郎長ものに近いものなのかもしれず、そこらへん、画面作りの厳格さと、やろうとしている「物語」との間にもしかしたら乖離のようなものがあるのかもしれない・・とも思えてくるのだけど、そこがこの映画作家の面白さというのか、豊かさなのかもしれない。
とにかく、最後のシーンのたまらない幸福感はこれが映画だ、映画万才とでもつぶやきたくなるようなものなのだけど、それは「物語」という意味では仲間と一緒にいることの幸福感と言えるのかもしれないが、しかし、そのシーンもまた「厳格」な構図で撮られているとも言えるのだ。
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